第十ニ話

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第十ニ話

「アンナ、そちらのお客様を連れて席を外してくれないかしら?」  それまで、ジャン以外全く見えていないようだった母が、初めてリリーの存在に触れる。 「アンナ、リリーに屋敷の中を案内してやってくれ」 「かしこまりました」  ここまで連れてきておいて、リリーを母に紹介することもなく出て行かせることに申し訳なさを感じたが、人払いをするということは、それだけ、これから母の話す内容が深刻であるということだろう。リリーは神妙な面持ちを浮かべながらも素直に頷き、アンナと共に部屋を出て行った。  二人がいなくなるのを見届けると、母はまるで、重大な国家機密でも伝えるような硬い表情で口を開く。 「単刀直入に言うわ、エドワード伯爵は、もしかしたら近いうちに逮捕されるかもしれない」 「…は?」  ジャンは一瞬、母の言っていることを理解できなかった。 「えっと…ちょっと待って母さん、なんでエドワードが?あの人は逮捕されるようなことは何も…」  動揺するジャンに、母は努めて冷静に話しを続ける。 「エセックス伯のことは、あなたも知っているわよね?」 「そりゃもちろん」  母の問いに答えつつも、突然エセックスの名が出てきたことに、ジャンは混乱する。  第2代エセックス伯ロバート・デヴァルー。 今やこのロンドンで、彼の名を知らない人間は一人もいないだろう。かつてはその美貌でエリザベス女王の寵愛を一身に集め、武人として市民からの人気も高かったこの男は、女王の側近、ロバートセシルとの権力闘争に敗れ反逆罪で斬首刑にされた。彼が起死回生の反乱を起こそうとセントポール寺院周辺で演説をした時、彼に拍手や歓声を送る市民は疎らにしかいなかったという、盛者必衰の哀れな敗者だ。  しかし今なぜここで、エセックス伯の名前が出てくるのか? 「エセックス伯が反乱を起こす前日、彼の崇拝者であるサウサンプトン伯が、市民を扇動するために、宮内大臣一座にお金を渡して、リチャード2世を公演させた事は知っているわよね。その公演に、エドワード伯爵も関わっていた証拠の手紙が見つかったらしいの。 リチャード2世は、王を廃位に追い込む政変劇よ。エドワード伯爵は、ロンドン市民達がこの舞台に熱狂していることを利用して、自分が支援しているエセックス伯の女王に対する反乱を正当化し、市民を煽る事に協力していたのよ」  母の突拍子のない話に、ジャンは馬鹿なと首を横に振る。  宮内大臣一座は、エセックス伯と共に反乱を起こしたサウサンプトン伯がパトロンをしていた劇団だ。その繋がりから、リチャード二世の公演が、彼らにとって何かしら意味があったのは確かだろう。実際宮廷は前々から、市民に絶大な人気を誇る宮内大臣一座が、政治色の強い内容の劇をやることに警戒心を抱いていたと聞いている。  だが、リチャード二世を公演したことが、反乱に加担した揺るぎない証拠になどなるわけもなく、劇団関係者も、エセックスの反乱後厳しい尋問を受けたようだが、結局すぐに無罪放免になった。だいたいサウサンプトン伯と劇団の関係を考えたら、公演の依頼なんてどうとでもできると考える方が自然なのに、なぜ今更エドワードが関わっていた証拠なんて出てくるのか?ジャンには不自然としか思えない。 「母さん、いくらなんでもその話しには矛盾が多すぎる。実際宮内大臣一座の関係者達はすぐに釈放されてるし、リチャード二世を公演したからってエセックス伯を支持する市民なんてほとんど出なかっただろう? そもそも、エセックスが処刑されたのは4ヶ月以上も前だ、そんな証拠あったらとっくに捕まって尋問を受けてたはずだ。それがなんで今更エドワードも加担していたなんて話に…」  そこまで言って、ジャンの脳裏に一つの可能性が浮かびあがり言葉を飲み込む。  まさかこれは、父の差し金だろうか?父に逆らい逃げ続けるジャンを自分に従わせるため、今ジャンを支援しているエドワードに、あらぬ疑惑をかぶせようとしているのだろうか? 『私達と同じく詩や演劇を愛していてね。男気溢れる素晴らしい男なんだ』  エセックス伯とエドワード伯爵は確かに親しかった。あれは、ジャンが20になったばかりの頃、エドワードの主催するパーティにたまたま居合わせ、突然紹介されたのが、かのエセックス伯だったのだ。  エセックス伯は、まだ若いジャンを見下すことなく親しげに握手を求めてきたが、ジャンがセシル派の筆頭、フランシスの息子だとわかった途端、明らさまにジャンに向ける視線が冷たくなったのを覚えている。  今となっては深入りしなくてよかったと思っているが、謀略渦巻く宮廷で、彼のようにわかりやすく感情が出てしまう人間が渡り合っていくのは至難の技であり、彼があそこまで上り詰めることができたのは、女王の寵愛があったからこそだろう。どちらにしろ、エドワードとエセックス伯の間に、芸術を愛する者同士の友情が存在していたとしても、女王の崇拝者であるエドワードが、すでに女王の寵愛を失いつつあったエセックスの加担などするはずがない。 (だがもし、俺の考えが正しければ…)  エセックス伯が失脚し亡くなった今、宮廷は実質ロバートセシルの天下だ。セシル家とヘッドヴァン家は祖父の代から旧知の仲であり、父は、女王が最も信頼する重臣であったウイリアムセシルの息子、ロバートセシルを、幼い頃から自分の甥のように手厚く扱っていた。  そんな二人の関係を考えれば、権力闘争や陰謀はお手の物のロバートセシルが、父の意向を汲んで、エセックス伯と親しかったエドワードに何かしらの濡れ衣を着せて逮捕ということは十分考えられる。 「母さん、エドワードのことはあの人から聞いたの?」 「ジャン、お願いだから自分のお父様をあの人なんて言わないでちょうだい」 「いいから答えて」 「そうよ、私もあなたがエドワード伯爵と懇意にしてるのを知っていたから、フランシスから、エドワード伯爵が逮捕されるかもしれないと聞いた時は血の気が引いたわ」  母の返事は、ジャンの考えを確信に変える。 宮廷の内部事情など普段母に話さない父が、あえて母にその話をしたのは、ジャンが母の話になら耳を傾けることをわかっているから。  今回たまたまリリーのための金の工面と重なったが、アンナと手紙のやり取りをしていたジャンが、どちらにしろ近いうちに母に会いにくることを見越していたのだろう。父はエドワードを陥れることで、ジャンを意のままにする作戦に出たのだ。 (ここまでするかよ!だから政治の世界は嫌いなんだ)  もし今オーク座の所有者であるエドワードが逮捕されてしまったら、公演中止や劇場閉鎖は免れず、今までのジャンの苦労は全て水の泡になってしまう。一体どうすればいいのか?どうすればエドワードは逮捕されず、公演を無事行うことができる? 「母さんの話はわかった、ただ今回の公演は俺が全ての責任を任されている大事な大事な舞台なんだ。エドワードとは必ず縁を切ると約束する!だからどうか今回の公演が終わるまでは目をつぶってお金を貸してくれないか?頼むよ母さん!一生のお願いだ!」 ジャンの必死な口調に、母は大きな迷いを見せ、しばらくの間考え込むように黙っていたが、やがて深く頷きジャンに微笑みかけた。 「ジャン、あなたが今回の公演をどれだけ大切に思っているか十分わかったわ。確かにあなたの言う通り、エドワードが加担していたならとっくに逮捕されているわよね。だけど、そういう話が出ているのは確かなのだから、彼と関わるのはこれで最後にしてちょうだいね」 「ありがとう!母さん!」  ジャンは大袈裟に喜びを表現し、母に親愛のこもったキスをする。 (この様子だと、父も逮捕を具体的な決定事項として話してないのかもしれない。どうする?その望みにかけるか?) 「母さんそれから、もう一つだけ頼んでもいいかな?」 「もちろんよ、ジャン、私にできることがあるならなんでも言ってちょうだい」 「父さんに、今度会ってちゃんと話がしたいと伝えてくれないか?」  ジャンの口からその言葉が出た途端、母は心底嬉しそうに声を上げる。 「ジャン!よかった!やっとお父様に歩みよる気持ちになってくれたのね! あなたはフランシスの事を誤解しているのよ。あの人があなたに厳しかったのは、ヘッドヴァン家の人間として、立派に育てなくてはいけないという信念があったからで、決してあなたを愛してないからじゃないの。血の繋がった親子なんですもの、顔を合わせてしっかり話し合えば、きっと分かり合えるわ!」 『なぜアランなんだ!せめてジャンなら…』  母はあの日、ジャンが二人の会話を聞いてしまったことを知らない。あの言葉を聞いていながらなぜそう思えるのか、我が母ながら不思議に思ってしまうが、ここで反論するわけにはいかない。 (母さん、あの人は俺を愛していないよ、亡くなった兄の代用品として利用したいだけだ…) 「そうだね、母さん」  心に浮かんだ言葉を胸にしまい、感激したようにジャンの手を握る母に、ジャンは笑顔で頷いてみせる。  母は良い意味でも悪い意味でも、自分の物差しでしか人を計れない人だ。もし自分の夫が、実の息子を政争の道具としか思っていないとしても、目的のためなら無実の人間を牢獄に追いやることも厭わない人間だったとしても、それを認めることは絶対にないだろう。  父とセシルが、一体いつ行動を起こすつもりなのかわからないが、まだことが起こっていない現時点でジャンにできることといえば、母ごしにでも自分が父と対話しようとしていることを伝え、エドワードの逮捕を思いとどまらせるよう働きかけることくらいだ。 (まああの男が、出来損ないの次男のために、考え直してくれるとも思えないがな) しかしだからといって、簡単に引き下がるわけにはいかない。 『ありがとう、ジャン』  ジャンは、自分の名を呼ぶことにすら、まだ初々しい戸惑いを見せる、突然運命のように現れた理想のアリアン役、リリーに思いを馳せる。たとえ本意ではなくても、今はエドワードと縁を切る約束をして母からお金を借りれなければ、ジャンはリリーを手に入れることができない。  トーマスには、演技をしたこともない徒弟だった少年に、アリアンを演じられるわけがないと呆れられたが、ジャンは、アポロンの窓から飛び立つリリーを一目見た時から、アリアンはリリーしかいないと確信していた。そこまで思える人間に出会えたのに、そう易々と諦められるわけがないのだ。 (父がどんな手を使って来ようと、必ずアリアン公演を成功させる) 揺るぎない決意を胸に、ジャンは、自らの手を優しく包み込む母の掌を、強く握り返した。
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