第一話

2/3

192人が本棚に入れています
本棚に追加
/80ページ
「くっそ、ムカつく!」  トーマスへの申し訳なさなどすっかり消えうせ、ジャンは端から見てもわかるほど険のある表情を浮かべたまま、人々が行き交うロンドンの街を足早に歩き出す。  時はエリザベス一世統治下のイギリス。不穏な情勢が続くヨーロッパで、40年以上安定した統治を行ってきた女王にも、死の影が少しずつ近づき始めていたが、この時代、イギリスでは多くの芸術が花開き、中でも演劇は、シェイクスピアやベンジョンソン、マーロウといった才能溢れる劇作家達がロンドン市民を熱狂させていた。  ジャンとトーマスも例に漏れず演劇に魅せられ、オックスフォード大学在学中から文筆活動を始めた、所謂、大学才人と呼ばれる駆け出しの劇作家だ。  だがトーマスの言う通り、中流家庭出身が多い劇作家達の中、ジャンの家柄は一際特殊といえるだろう。  ジャン、ことジャン・フィリップは、初代イングランド王ヘンリー7世の時代から続くヘッドヴァン伯爵家の次男である。  若い頃から外交官として活躍し、今もエリザベス女王の側近を務める父フランシス。毛織物で財を成した資産家、リチャード・ジークの娘で、少々世間知らずなところがあるものの、優しく慈悲深い心を持つ母リディア。  そして、品行方正頭脳明晰、女王からの覚えもめでたく、ヘッドヴァン家の至宝と言われた非の打ち所のない兄アラン。  そんな、家柄も財産も申し分ない、輝かしい貴族の家系に産まれたジャンは、次男とはいえ、ヘッドヴァン家の息子として恥じることのないよう、兄と同じく一流の家庭教師に英才教育を受け、貴族がこぞって入る名門イートン校からオックスフォード大学へ進学。  14の時にはすでに、貴族の嗜みと高級娼館で女を覚え、お金で買えるこの世の贅沢を全て知り尽くしてしまっていた。側から見ればジャンは確かに、全てを手にして産まれてきたと言っても過言ではないだろう。  ただ一つ、ジャンが持っていないものをあげるとするのなら、それは、父からの愛情だったのかもしれない。 『なぜアランなんだ!せめてジャンなら』  忘れることなど決してできない、悲痛な記憶が蘇り、ジャンは首を振って父の言葉を頭から追い出す。 (俺は貴族だからって、お遊びで演劇をやってるわけじゃない!)  裕福な貴族や商人の息子達ばかりのオックスフォード大学で、貧しい庶民の出から奨学金で大学に入ってきたトーマスは、ジャンにとって尊敬できる人物であり、数少ない気の合う友達の一人だったが、今回ばかりは自分が招いたヒロイン不在の窮地を棚に上げて、腹の虫が一向に収まりそうになかった。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

192人が本棚に入れています
本棚に追加