心情おじさんと人魚姫

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心情おじさんと人魚姫

美しい人魚は 銀色の泡になったよ 人間にひどいことばかりされたから その池には近づいてはいけない 水に引き摺り込まれてしまうよ    池のほとりにある親娘がいた。 「パパ。アプリのセットはこれで良いかしら」 「よし。じゃあよーいどんでスタートだぞ。設定速度から外れると音が鳴るからね」 「分かったわ」 細身の父親は眼鏡を押し上げながら地面をそっと蹴り、その隣で縦も横も大きな娘が自転車のペダルを勢いよく踏み込み、父の右肩を越していく。 父は右手のスマホに表示された分速70mの表示をチラチラ見ながら歩いた。 (しかし家の近くにこんな良い場所があったなんてなあ) 新居の近くにある小さなお社を散策していると、裏側に階段があるのを見つけた。降りていくとそこには池があった。池の周りの木は丁寧に手入れがされ、地面は短く生えそろっている。さやさや鳴る葉と日の光を反射して輝く水が、いつまでもここに留まっていたいという思いにさせた。 (ほんとうに綺麗な池だよなあ) 父は大きく深呼吸しながら澄んだ水を眺めた。子育て中の鴨の親子や、咲いたばかりの蓮の花も気持ちよさそうに浮かんでいる。 ふと、水面で銀色の泡がぶくぶくしているのが目についた。次第にそれは大きく、もこもこと1つになり、人のような形になる。 「??」 長い髪で体のほとんどが隠れているが、それは遠目にも女性と判った。 「!!!!」 その女性はゆっくりと片手をあげ、手招きし始める。父は驚きよりも銀のあぶくの残る黒髪の美しさに目を奪われ、思わず足を止めた。 「パパーっ!危ないっ!」 「あっ」 アプリのアラームと共に、体に衝撃が走る。池を一周してきた娘が勢いよく背後から父を轢いたのであった。池のほとりで、中年は無力であった。   久方ぶりの好機! 人間どもめ、殺してやる…!!   人魚は長くうねる黒髪の下でニヤリと笑い、 輝く珊瑚朱色の尾ひれを大きく振りながら池の底に沈んでいく男の首に真っ白な腕を伸ばす。 男は残された意識で、近づいてきた人影を「助けが来たのだ」と、思う。そして、必死にその人影にしがみついた。 「!」 人魚は男の思わぬ行動に吃驚し、慌てて上昇し男を陸に投げた。 「ゲホゲホ…あ、ありがとうございます」 何者が自分を助けたとも判らず、父は呼吸を整えながら礼を言う。 「…」 初めての人の体温に、人魚は離れがたい何かを感じた。池の縁に手を駆けたまま水中には戻らず、助けた人間の傍で様子を窺っている。 「パパーっ!」 父の姿を見つけ、娘が自転車を放り出しどすどす走ってくる。 普段乗らない自転車を懸命に漕いだ娘は、その体重の負荷も手伝って、足ががくがくしていた。 「あっ」 足をもつれさせ、娘はそのままドボンと落水する。 「夢チャーン!」 父が叫ぶ。 反射的に人魚の体は動いてしまった。白目を向いて落ちていく娘の腕を引き上げ、その怪力で娘を陸に送り返す。 (結構重たいぞ、この娘…) 「夢ちゃん!」 しかし父は、 「どこなの!」 ひどく近眼であった。 さらに先ほど溺れた際、水中で眼鏡をなくしていた。 「パパ助けるからあ」 「ちょ、待たれよ」 思わず人魚が声をかけるも、パニックになった中年の視野は劇的に狭くなっていた。 「うっ」 飛び込んだはいいものの、思い切り腹から着水し、呻きながら沈んでいく。このおじさんには視力もないし、運動神経もなかった。   「はあ、はあ、貴様ら!いい加減にするのじゃ!」 再度父を陸に投げた人魚が天に向かって怒りの声をあげた。 「申し訳ありません…本当にありがとうございます」 父は平謝りする。娘もお礼を言おうと水中の女性を見つめるが、 「あっ、あなた、まさかマーメイドさん?」 水面から覗く光る鱗が見え、お礼をいうよりも先に感嘆してしまった。 人魚はまずいな、と言う表情をする。マーメイドという言葉は初めて聞くが、自分の姿を言っているのだろう。 「ほんとうだ!なんて美しいんだろう」 父が水面ギリギリに顔を近づけるので、人魚はどきりとして水中に潜ってしまった。   お池のマーメイドちゃん お腰が光ってキレイなの  お顔も美人で女優さん 基礎化粧品は何を使っているの お池の水はオールインワンなの   娘が唐突に歌い出す。 水中でもじゅうぶんに聞こえる声量だが、音程がめちゃくちゃである。 (何と珍妙な) 人魚が思わず吹き出して、銀色のあぶくが水面に浮かぶ。 「ああ、すみません。娘はミュージカルが大好きで、常にミュージカル口調ですし、良いフレーズが降りてくると歌ってしまうんですよ」 再び顔を出した人魚に、父が補足した。 「み、なんだそれは」 「歌ったり踊ったりする舞台劇のことです」 「…」 (こいつらはなんなの?久しぶりに人間を見たけれど、こんなんになってしまったの??) 人魚は困惑したが、異形の自分を見ても朗らかにしている2人に、自分を美しいと言ってくれた2人に、何か(ぬく)いものを感じた。 「お前たちはここで何をしているのだ?」 人魚が尋ねる。 「この問題を実践していたのですよ」 父が脱いだTシャツを絞りながら答えた。 【一周3キロの池の周りを、はじめくんは分速70mで、かおりさんは自転車で分速350mで同じ方向に走り出しました。かおりさんが池を一周し、はじめくんを追い越すのは何分後でしょう】 「パパに教えてって言ったんだけど、パパは算数が苦手なのよ」 娘がそっと人魚に耳打ちする。  「ほう、旅人算というやつじゃな」 「マーメイドさん、わかるの?」  「こんなもの、容易いわい。しかしこの池は一周するのに半里もないだろう。実測などできないであろう?」 「甘いですぞ人魚様。やることに意味があるのです」 「パパは登場人物の心情からこの問題を解こうとしているのよ」 「心情じゃと?」 * 「総務の仕事をしているしているかおりさん(29)は、美少年はじめくん(18)のことを朝の電車で見かけて以来、ひっそりと推しています」 父が絞ったTシャツを傍に置き、正座をして語り出す。 「こういう問題の登場人物は、ふつう回答する子どもの年代に合わせるものではないのか?」 人魚は呆れているが、娘にたしなめられる。 「今は多様性を尊重する時代なのよ。色んな人がいるし、色んな問題の解釈があっていいと思うわ」 「……」 「駅の改札を出て、かおりさんは急いで駐輪場へと向かいます。池の遊歩道側から自転車を押していくと、ちょうどはじめくんが先を歩いているのが見えるタイミングを狙っているからです。池の水鳥を見るふりをしてかおりさんはわざと自転車を押して歩きます。毎朝のこの時間をかおりさんはとても楽しみにしていました」 「ストーカー気質ね」 「しかしこの日はいつもと違っていました。はじめくんの隣に、お嬢様学校の制服を着て歩く女生徒の姿があったのです」 「なんと、女がおったか」 池の縁に頬杖をつきながら聞いていた人魚の顔つきが変わる。 「恋心を推し活という単語にすり替えて、自分の気持ちを抑えていたかおりさんでしたが、やはりこういう場面を見るとショックです。しかしかおりさんは『私は彼を好きなんじゃなくて、ただ推しているだけ。推しの幸せは私の幸せ。名前も知らないあなたの人生を、これからも応援していきます』そう彼に心の中で告げると、自転車を立ち漕ぎして2人の横をすり抜けました。でもその瞬間、しっかりと女生徒の顔を確認しました」 「悲恋じゃな…」 「はじめくんと釣り合っている女なのかしら」 「女生徒はぱっちりお目目で色白の、とても可愛らしい人でした。ニコニコしながら、いたずらっぽくはじめくんの手を取ろうとしています。手を繋ぎたい彼女と、照れる彼氏。とても微笑ましい光景です。かおりさんは、可愛らしい子でよかった、とほっとしました。そして幸せになってね、と思う刹那、美しいはじめくんの顔もガン見しました」 「隙あらば()でたいわよね」 「そして前を向いて走り出したかおりさんでしたが、しばらくすると違和感に気付きました。なぜならば、先程のはじめくんは美しい顔を歪ませ、泣きそうな顔をしていたからです。かおりさんは通勤ルートから外れ、突然池の遊歩道に沿って自転車を急カーブさせました」 「何があったのじゃ!」 「あの女生徒ははじめくんと手を繋ごうとしていたわけじゃない。渡そうとしていたんだ!かおりさんは池を一周し、2人の背後に迫りました。女生徒がはじめくんの手に無理やり何かを握らせた。一瞬チラリと見えたあれは、職場で見慣れた『パケ』だ! そう、かおりさんは総務は総務でも、警察署の総務課証拠品係だったのです!」 「かおりどのは只者ではなかったのか!」 「女は違法薬物の運び屋だったのね!」 娘も人魚も大興奮で聞いている。 「女生徒は成績が伸び悩んでいた半年前、SNSで知り合った悪い輩から『集中力が保てる薬』を渡されました。しかし、それが悪いものと気づいた時にはもうその欲求に抗えずにいたのです。薬の代金を捻出するため、女生徒は知り合いにも広めようとしていました。女生徒はその後警察と病院へ。その日がかおりさんとはじめくんの記念日になりました………十年後の大安には、儀礼服を着たはじめくんと、ウェディングドレス姿のかおりさんの姿があったのです。おしまい」 「なんと…。女生徒も更生すると良いな……」 「エピソード2は出勤したはじめくんと、夫が忘れた愛妻弁当を届けるかおりさんの話ね…」 人魚は鼻を垂らして泣き、娘は続編を希望していた。 「と、このように登場人物の心情を想像すれば、数字などどうでも良いのです」 「それでは算術の答えになってないではないかっ」 急に現実に引き戻された人魚が容赦無く突っ込む。 「……そうですよね…。どうせこんなことをしても回答は得られないんだ。ごめんよ夢ちゃん」 父は両手で拳を作り、地面を叩いて悔しがった。 「パパ、誰にだって苦手なものはあるわ」 「計算もできない、目も悪いし運動もできない。妻にも逃げられるし、本当にダメな父親だよ」 「そんなことない。私はパパと居られてすごく幸せよ」 娘がそっと父親の背に掌を乗せ、さする。 その様子は親娘の絆を感じさせ、人魚はこの人間たちを試してみたくなった。 「私が教えてやろうか」  「良いの!?」  「ああ。そのかわり、お前、私と結婚しろ」 人魚が不敵に笑い、父親を指差す。 「ええっ」 親娘が仰反る。少しの沈黙の後、 「人魚様は戸籍を持っているのですか…?」 父が恐る恐る尋ねる。 「そ、そのようなものは持ち合わせておらぬが」 「そうか、では法的には難しいですね…」 (ほら、やはり人間は…。口では綺麗だなんだと言いながら、心では異形を侮蔑しているのだ。うまく言い訳をして逃れようとしているのだな) 人魚は淡い期待をした自分を恥じ、少し俯いた。 「じゃあ、事実婚ですね」 「なっ」 人魚はまたしても吃驚した。 「私も、マーメイドさんがママだったら素敵だと思うわ!」 なんの迷いもなくグイグイ来る2人に、人魚は照れを隠さざるを得なかった。 「そ、そんな、どうせ口だけだろう。教わったらすぐに去るくせに。人間は皆嘘をつく」 「どうしたんですか急に?」 (自分からプロポーズしておいて、二つ返事でオッケーしているのに否定された…。情緒不安定なのかな?) 不思議がる父親を、人魚は自分のことを心配しているのだと勘違いし、この人になら話せるかもしれない、と思った。 「人魚の肉を食べると800年生きられる、というのを聞いたことがあるか」 「図書室の本に載っていたのを見たわ」 「昔は私以外にも仲間がいた」 人魚はこの池に数百年住んでいた。人間は人魚の肉を求めてたびたび現れてはある時は罠を仕掛け、ある時は強引に、または巧みな話術でわずかな仲間を捉えていった。 「そして50年以上前、私はとうとう一人になってしまった。それからしばらくしてある男が現れた」 その青年は人魚の存在を知らず、勉強するため、静かな場所を探してここへたどり着いたと言った。 「久しぶりに見る人間の姿に興味を持った私は顔を出し、青年と交流するようになった。私は青年に勉強を教え、青年は世の中のことを色々と教えてくれた」 「そして奴は、自分が身を立てたら結婚しようと言った。だのに、その日から二度と現れることはなかった。その代わりに野蛮な男たちが集団できて、私のことを捉えようと池の水を吸い上げ始めたのだ……。私は横穴から繋がっている場所へと逃げ、事なきを得た。私たち異形は、人間に幾度となく裏切られ、騙されてきた。だから、お前たちがここへ来た時、これは復讐の機会だと思った」 (それって…) 親娘は顔を見合わせた。 「…それはあなたを捕まえようとしたのではなく、おそらく水を綺麗にしようとしたのでしょう」 「? どういうことだ」 「彼の言葉は本気だったけれど、現実は上手くいかなかった。もしかしたら親の決めた相手と結婚しなければならず、あなたのことを諦めざるを得なかったのかもしれない。想いを断ち切るためもう会わないと決意し、その代わり、あなたの棲む環境を美しくしようと掻い堀りを頼んだのではないですか」 「掻い堀り…」 「テレビでやってるとつい見ちゃうやつよね」 「最初にここへ来た時に不思議でした。人気がないのに環境が整っている。彼の意思をお社が引き継いでいるのかもしれない」 「確かに私が戻ってきた時に水が澄んでいたのを覚えている……。あやつなりに考えていたのかもしれないな。もう生きてはおらぬかもしれぬが、幸せに暮らしておると良いのう……」 「あくまで私の想像です。彼の本心は分からないし、ここの管理も昔からお社の方がやっているだけなのかもしれない。しかし、一時でも彼と過ごした時間はあなたにとって幸せだったはずです。こんなに美しい命の恩人が過去を恨み続けるのを見ているのは私も苦しい。どうか、今の話を間に受けて、未来を向いてみてはどうですか。私はあなたに一目惚れしてしまいました」 優しく微笑む父の笑顔に人魚はの心はぎゅ、と掴まれ、真っ白な頬が(とき)色に染まる。そしてゆっくりと沈んでいったかと思うと、しばらくして浮き上がった。 人魚は、水面から上がってくる自分を見つめていた父親にそっと眼鏡をかけてやり、頬に口づけをした。 「こんなおじさんだけど」 「それはお互い様だよ」  娘が自転車のハンドルに括り付けたスマホを外し、画面の表示を爽やかに読み上げる。 「答えは2時間23分ね」 「?」 「パパがお姫様に出会ってから結婚するまでの時間よ」        池のほとりには小さな小屋  人の気持ちがよくわかる優しいお父さんと  個性派女優の道を歩み始めた娘  娘に勉強を教えるのが得意なお母さんと  泳ぎが得意な赤ちゃん    その池には近づいてはいけない  家族の幸せを邪魔してはいけないから
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