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車軸を流す、という形容も憚られるほどの土砂降りだ。
予想外の降雨から逃げ惑うように、街路の一角にたたずむ古書店に私は駆け込んだ。月曜日からとんだ災難だった。
以上がつい2分前までの話。
水滴の浮いたフロアマット。天井は思ったより高い。室内はほの暗く、蛍のような淡い光を放つランタンが天井にぶらり。
すりガラスのはめ込まれたアルミ扉を背にして、私は、煤けたパイン材の本棚と睨めっこをしていた。
もっとも、当の本棚が私に向けているのは書籍の背表紙にあたるわけで、この場合は睨めっこと表現して的確だったのかと、少しだけ気にもなった。
本棚は背もたれの長い二人がけチェアくらいの大きさで、狭苦しい間取りに無理やり押し込まれたその佇まいは、木の熟れた匂いと、押しつぶされそうな圧迫感をゆらゆらと醸している。店内に流れるゆるやかな音楽は、奥で店主が座るカウンター横のオルゴールから流れているようだ。
アガサクリスティー
川端康成
新見南吉
森鴎外
古今東西、老若男女、人生で一度は見て聞くであろう文豪たちの名が文庫書体でずらりと並び、無作為に視認した名前に注目しても、著作や写真が脳裏に浮かんだ。
私はその中より一冊、「走れメロス」の文庫に指をかけ、白無地の表紙を、疑念と恐怖に震える指で恐る恐るめくった。
――やはり、この作品も。
私は知っている。「メロスは激怒した」から始まる、あの誠実と友情の物語を。たくましく駆け抜ける雄姿を。少女が恥ずかしがる一文も。
しかし、私の眼前にあるはずの「本文」はそこにはなく、ただ、白で、無言で、虚無を手のひらサイズに固めただけの、のっぺらぼうの金太郎あめが鎮座しているだけなのだ。
王は邪智暴虐をさらさず、メロスの妹は結婚しない。
物語には、力がある。それは数式や記号に存在が証明されるような即物的な物ではなく概念に近しい。精神や感情を揺さぶるような、試験紙には映らない圧力を、活字は湛えているのだ。
だからこそ賢者は育まれ、歴史に影響を与え続けている。
今日の平和は成り立っているし、戦争はなくならない。
それなのに、眼前のこれはなんだ。
タイトルだけがそこにあって、物語は存在していないのだ。私にはこれが、どうも創作への冒涜に思えてならなかった。バカには読めない物語という風刺である可能性も考慮したいが、書店一つを使ってまでそんなことをする意味もないだろう。
息をひとつはいたあと、私はとうとう意を決し、突き当り、店奥で鼻提灯を膨らませる30代ほどの女性店主のもとへ足を進めた。憤りではなく、実直な好奇心による行動であった。私のローファーがコツコツとフロアタイルを叩くと、その音はオルゴールと混ざり合い、リズムを計るメトロノームのようにも聞こえる。
彼女は客を前にしているというのに、交差させた腕を枕にして寝息を立てている。ないがしろにされる不満というよりかは、不用心だなという心配の方が勝った。
「あの、すいません」オルゴールの手前にある卓上ベルを叩く。リン、と鐘のこすれる音に反応し、栗色の髪の毛がはねた後で、その店主は顔を上げる。身に着けている赤ブチの眼鏡はかなり年季が入っていた。
「何の用でしょうか」彼女の返答とは裏腹に、目の焦点は私に定まっていない。何度も似たような対応を繰り返したのであろう、条件反射的なセリフであった。
「この本屋に置いてある作品なんですけど」間をおいて私は続ける。「全て、白紙ですよね」
「そうですけど」
「そうですけど、じゃなくて」
彼女の口から帰ってくる返答は、気の抜けるような素っ頓狂なものである予測は立てていた。私以外に同じ質問を投げかける人は存在するだろうからだ。私は、取り乱さないよう意識しながら、歩み寄る数歩の間でまとめた疑問を彼女の前で広げた。
「おかしいじゃないですか。そこにある筈の物語が存在しないなんて。シェフの気まぐれサラダといってキャベツの千切りだけが出てきたような心境ですよ」
「そうは言われてもねぇ。このお店は、私が引き継いだころからずっと白紙ばかりなのよ」
「商売として成り立つのですか?」
「存在しないよりはマシ程度ね。でも、仕方がないのよ」店主は息を吐いた。「創作物に溢れかえった今のご時世、何を書いても【あの作品のパクリだ】って指を差されちゃうし、どんな感想を述べても悲しみが生まれる。だったら最初から本文を白紙にしてしまって【同じ物語を読んだ事実】だけを共有するしかないの」
「……私には理解しかねます」
「それだけじゃない。あなたは知らないでしょうけど、ここ最近、活字が知能を持ち始めているせいで、それを無力化する必要が出てきたのよ」
「活字が知能を……?」
「ケータイ小説って知っているかしら。あの文化が事の発端なんだけどね。到来の文学には存在しない【空白】に意味を付加したせいで、それらが質量を持ち始めた。間や沈黙を意味するために使っていた改行と空白自身が、その力を自覚してしまったのよ」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか。甚だ信じられません」
「でしょうね。じゃあ、物語が持つ力について、具体的に教えてあげるわ」
――あなた、今、自分の名前を思い出せるかしら?
「……私の名前? そんなもの……、えっと、あれ」
そんな質問、と皮肉気にこたえようとした私の脳は動きを止め、頬を冷や汗が伝った。
名前が、出てこない。
いや、私という存在に関する記憶を失ったわけではない。私の名前を呼ぶ声、私の名前をあらゆる欄に記入した記憶、すべてが鮮明に残っている。しかしそのどれもが、今、彼女の問いに対して私の口から発することができなかった。
文字は見えている。だがなんと呼べばいい。音は聞こえる。だが言葉にできない。
唐突に幕が上がった非日常というスクリーンの中へすでに私は立っていることを理解するが、その感情を説明する言葉すらも喉奥から湧き上がってこない。
眼鏡をかけなおすと、女性店主は得意げにつづけた。
「思い出せないのも無理がないわ。今ここは、あなたがいた時代の2000年後の世界で、あなたは当時の資料から再現された精巧な人造人間でしかないからね。技術ってすごいでしょ」
「でも私は、雨が降っていたからここに駆け込んだ」
「そうよ。2000年前のあなたの記憶はその雨で途切れているの。西暦4020。気象庁のスケジュール通りに気候を管理されているこの世界では、雨が降るのは隔週の火曜日と金曜で、今日はその日ではないの」
「そんなもの……、信じられないです」
「嘘なんてつくものですか。だったら玄関を開けて確かめてくるといいわ」
私は言われるがままに、いや、先ほどからそうする予備動作を行っていたかのように踵を返し、突き当り、陰に紛れてひっそり佇むアルミ扉へと足を上げた。
既に、靴裏が地についている感覚はなかった。
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「まぁ、全部嘘なんだけど」
走り去っていくその後ろ姿を見送って、私は、誰に聞かれるわけでもないのに思わず声を漏らしてしまう。
行き場を失った言葉は雲散し、どこにも染みず消えてしまうので、あまり使わないようにしていたのだが。
外はまだ雨が降っているし、今は2020年の夏前だ。玄関を開けたらあの人は自分の名前を思い出し、この場所がどういう所であったかを忘れてしまうだろう。
だが、戻ってもこない。長考したりはするかもしれないが、結局は雨に濡れながら街路を駆けていくという選択を採る。なぜだかはわからないが、それはきっと、これが物語であるから働く力なのだろう。
椅子の下からゾゾゾという音がした。愛しい「彼」が、私たちのやり取りで目が覚めてしまったようだ。
パイプの脚を染め上げるように黒い流体がゆっくりと這い、腿に管をまいては先端をいじらしく私に向ける。何層にも重なったビーズ細工のようなその彼の一部を組成するのは、全て活字だった。一文字が細胞で、一文が血肉となって、今もなお膨張し続けている、この書店に住まう物語の怪物。私ももはや、彼がどんな形状で、どれほどまでの大きさに成長したのかは把握していない。
いずれここに収まりきらなくなった彼が外に飛び出すその時、初めて大きさを体感するのだろう。
視界を流れる無数の文章の中で、たまたま目に入った「メロスは激怒した」の一文がなにやら愛しく思えたので、そっと手を添えてあげた。
「まぁ、全部嘘なんだけど、物語に力があるのは事実なんだよね」
オルゴールのゼンマイが止まり、天井に浮かぶランタンがカラリと揺れる。
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