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殺ったね、N川さん。
キーンコーンカーンコーン……
チャイムの音が鳴り響く。
四時間目の子守唄もとい英語教師の教科書を音読する声で、眠りの世界に旅立ちかけていた僕は少しずつ覚醒し始めた。あたりを見渡すと、あくびをしている者や、大きく伸びをしている者、机に頭を突っ伏し本格的に眠りの世界に旅立つ者などがいて、みな同様だったのだと知る。
やっと昼か……と、そそくさと鞄に手をやり、弁当の包みを取り出す。
すると、前の席に座るN川さんがすっと椅子を引き、僕の方を振り返る……のかと思いきや、音もなく立ち上がり、僕の背後へと向かった。
背後でがさごそと音がする。
……残念。彼女のお目当ては僕ではなく、僕の背後に並んだロッカーだったようだ。万に一つの可能性に期待した僕がアホだったのだ。
席替えのくじ引きで引き当てた、窓際の最後列。
夏の陽射しは厳しいものの、今は初夏といった頃合い。爽やかな風と、机の上を波打つ水面のような陽光の、微睡みへと誘う席。
さらに、僕の前の席は、このクラスのアイドル、N川さんだ。
N川さんは、この春に僕たちのクラスに転校生としてやってきた女子生徒だ。
N川さんがやってきた日は、青空と桜の薄紅色の色彩が美しい日で、さらさらツヤツヤな背中まで伸びる黒髪を春の風が揺らし、白く美しいかんばせを麗らかな陽光が照らしていた。自己紹介をする彼女の凛とした姿に、クラスメイトのほとんどががハートを撃ち抜かれた。転校してきて数か月しか経っていないものの、N川さんの存在は学年中に知れ渡っていた。
文武両道で、才色兼備。物腰も柔らかく、男女問わず人気がある。教師からの評判も良い。
そんな彼女の父親はどこかの社長らしい。つまり彼女はお嬢様なのだ。
地で高嶺の花をゆく彼女は、前世でいったいどれほどの徳を積んだのだろう。
僕はこの席替えで持ちうるすべての運を使い果たしてしまったのかもしれない。
配布物は彼女の手から、渡されるし、美しいかんばせを拝むこともできる。
後ろ姿だけでも眼福なのに、初夏の風が甘い香りを運ぶのだ。
ここは天国である。
ロッカーの前に佇む彼女の様子をそれとなく観察する。
可愛らしいピンク色をした大きめのバッグを重たそうに取り出している。ジッパーから覗くのは、クッキーだろうか。それも大量の。
手作りのものではなく、市販のもののようだ。ビニールの包装に印刷された文字が書かれているのが見える。
「はい、これ。よかったら食べて」
すっと眼前に差し出された白魚の手。
クッキーかと思っていたが、どうやらパウンドケーキだったようだ。
色とりどりのドライフルーツが散りばめられている。
「え……、僕に?」
「そう。たくさんあるからおすそ分け。クラスのみんなにも手伝ってもらおうと思って」
なんだ、僕だけじゃないのか。
僕はクラスのアイドルから特別な感情を向けられるような人物ではないと自覚している。自覚してはいるものの、それでもやはり残念に思う。
「はい、佐賀くん」
N川さんはクラスメイトひとりひとりにパウンドケーキを配って歩いている。彼女からの恩恵にあやかろうと、普段はチャイムとともに教室を飛び出す者たちも自分の席でそわそわしている。
どうやら保冷剤で冷やしておいてくれたらしく、ケーキはひんやりと冷たい。彼女のバッグが重そうだったのは、保冷剤が大量に入っていたからか。
初夏といえども、正午を過ぎると段々陽射しがきつくなってくる。
冷たいデザートは正直とてもありがたい。
クラスのみんなもそう思っているのだろう。弁当箱を開く前に食べ始めた者も見受けられ、あちこちから「なにこれ、すっごい美味しい!」なんて感嘆の声があがっている。
冷たいものは冷たいうちに食べるのが良いのだろう。しかし僕は、美味しいものは最後にとっておくタイプだ。
早々に食べ終えて、N川さんに感謝を伝えるという口実のもと会話の機会を設けるのも魅力的だが、放課後にそっと告げるのも印象に残るのではないだろうか。
そっと弁当箱を開く。
ぎっしりと詰まった白米とおかず。
僕は食べるスピードが人より遅い。
この弁当箱を空にするのに三十分は要する。
食べ終えたころにはパウンドケーキは常温に戻っていることだろう。
早々に食べ終えパウンドケーキに歓喜しているクラスメイトを眺めながら、箸を運ぶ。
しかし、このクリスマスでもバレンタインでもなんでもない日に、わざわざ冷やしてクラス全員分お菓子を持ってきてくれるなんて、N川さんはなんてできた人なんだろう。
食べ終えたクラスメイトの感想を聞きながら、包装ビニールの回収までしている。彼女は今世でも徳を積むつもりのようだ。
クラスメイトのほとんどがパウンドケーキを食べ終えただろうころ、僕はようやく箸を置いた。
さてさて、お楽しみの時間だ。
封を切り、角を一口かじる。
N川さんがくれたものだからか、それともお菓子の元からの味なのか、パウンドケーキはとても美味しかった。ドライフルーツの甘みや酸味がアクセントになっていて、初夏にぴったりだ。
「……うっ!?」
…………え?
隣の席に顔を向ける。
見ると、僕の隣の席の男子生徒が首を掻くようにして悶え苦しんでいる。野球部主将の米満君は、真っ黒に日焼けした顔を心持ち赤く染め、真っ白な歯をまるで威嚇している動物かのようにむき出し、荒い呼吸をしている。
「ぐはっ!?」「え……?」
あたりを見渡すと、先ほどまで歓声をあげていたクラスメイトたちが喉の辺りを抑えて苦しんでいる姿が目に入る。みんな何が起こったのかわからないというように目を見開いている。
え……? みんなどうしたの……?
ひとり、またひとりと膝をつき、倒れていく。
僕は呆然とその様を見ていることしかできなかった。
「ふふふっ」
あ、よかった。N川さんはなんともないようだ。
だけどどうして彼女は、この地獄絵図のなか、楽しそうに笑っているのだろう?
「……N川さん…………?」
「あら。北野くんは平気なの?」
N川さんは笑うのをやめて、くるっと振り返り、物珍しそうな目を僕に向ける。
「やはり試作段階じゃこんなものなのかしら」
九割五分といったところかしら……、と彼女が呟く。
なんの話だろうか。
それより先生たちを呼びに走ったほうがいいんじゃないだろうか。
ふと、手に持つ菓子の外装が目に入る。
つい三十分ほど前にN川さんからもらったパウンドケーキ。
その商品名や成分が書かれている裏面の文字の羅列。
『製造元 N川製薬』
そうだ……、N川さんは製薬会社の娘さんだったか。
あれ? なんだか呼吸が苦しい……?
「あら、百パーセントね」
N川さんがこちらを見つめて楽しそうに笑っている。
ふふふ、と鈴が鳴るような笑い声。
僕の視界は掠れ、真っ暗になった。
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