1 黒猫と呪いの刀

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  6 黒い髪の女  ひやりとした冷たい木の感触が足の裏を伝う。ひたひたという不気味な足音に、何かを引きずる音が混じる。月明かりのみに照らされた廊下を人影がゆらゆらと歩いている。  自分がだれか、此処は何処か。そんな疑問が、答えを得ないまま浮かんでは消えていく。   ただ思うのは、憎い。殺したいほどに憎い。影は一直線に奥の部屋へ向かう。その一室だけ、蠟燭の灯が揺らめいている。その障子には小さく丸まっている影が一つ。少し空いた障子の隙間から風が吹き、蝋燭の灯が消える。代わりに、障子に廊下にいる人影が照らし出される。  老人が怯えた目で人影を見ている。人影は右手をおもむろに振り上げた。その手には鋭く光る、長いものが握られている。人が振り上げる動作をするとき、たいていは何かを壊すため。    たとえそれが、人の命であろうとも。  手がその光を振り下ろそうとする。しかし、その少し前に人間の中にある理性が復活した。 「っ!?」  生気のなかった瞳に光が宿る。 自分が何をしようとしているか理解するのに少し時間がかかる。自分は誰で、どこにいるのか。深呼吸でもして考えたいところなのだが、そんな悠長なことはしていられない。  自分の名前は五十鈴裕昌。それだけで十分だ。 「なっ!か、体が勝手、に……!」  自分の手を見ると、あの刀が握られている。裕昌は刀を見て息を吞んだ。徒人には視えない、濃密な黒い霧がかかっている。裕昌の理性でとどめている刀が、わずかに動いた。 「逃げて!」  老人が慌てて数歩ほどの距離を這いつくばって後退する。それとほぼ同時に、先ほどまで老人がいた場所の畳に刃が刺さっていた。裕昌はひやりとした。あと数秒遅かったらこの部屋には血だまりが出来ていたことだろう。再び刀が勝手に動き出す。裕昌は何とかして止めようとするが、腕が自分のものでなくなったように言うことを聞かない。 「ぐうっ……!」  刀が老人にまた斬りかかろうとする。刀の軌道を少しでもずらそうと力ずくで引き寄せる。老人も、顔を見知った青年に殺意がないことを理解すると、なんとか逃げようと部屋中を腰が抜けたまま這いずり回る。三回、四回、五回、と刀が振り下ろされる。  裕昌は肩を上下させ息をする。全力で刀をコントロールしようとしていたが、それも体力の限界だ。  ふと、刀が、いや、裕昌の手が刀の刃の向きを変えた。 「え?」  その右腕が勝手に水平に動く。その先にあるのは裕昌の首だ。    あ、まずい。  人生で初めて、死を実感した。その刹那。  廊下側の障子が蹴破られ、裕昌の耳元で金属がぶつかり合う音が響く。頸動脈まであと数センチのところで、刀は止まっていた。 「裕昌を殺ってその体を奪い、あの爺さんを亡き者にしようってか」  聞きなれた声が怒りを孕んで低くなっている。 「裕昌、許せ」  そう言って黒音は裕昌の右肩を噛んだ。裕昌は痛みに思わず「いだっ!?」と叫ぶ。操られているといっても、痛覚は裕昌のものだ。その刺激にほんの少し、刀を握る手が緩んだ。そのすきに黒音が脇差で刀を跳ね飛ばす。庭まで飛んだ刀を黒音が追いかける。  飛んだ刀と共に、裕昌の中に巣くっていた刀の妖気が本体へ向かう。  裕昌は噛まれた右肩を押さえて自分の右腕を動くか確認した。しっかりと自分の意志で動くことを確認すると、黒音の後を追った。 「黒音!」  廊下へ出ると、黒音が刀と対峙していた。よく見ると、刀の周りに黒い靄がかかっている。 「早くその姿を現したらどうだ。その様子だと、もう妖力は戻って(・・・)いる(・・)んじゃないのか」  黒音の言葉に応じたように、黒い靄が何かを形どっていく。それが人の姿に代わると、靄の中から、女が現れた。雪のような白い肌に、それを縁取る長い黒髪。目は前髪に隠れていて見えない。そして黒いワンピース。裕昌の頭の中で、何かがはじけるように、記憶が鮮明に思い出される。あれは、意識を失う直前に、上木の隣にいた女。 「お前はっ……!」  裕昌が叫ぶ。女は首をことり、と横に傾け、にぃ、と嗤った。その口の角度、嗤い方があの血の涙を流しながら嗤っていた表情に重なる。どうして今まで忘れていたのだろう。あれが元凶だといっても過言ではないというのに。 「裕昌、一つ教えておいてやろう。物に憑くのは念だけじゃない」  黒音が脇差の切っ先を女へと向ける。 「物自身が自我を持つことがある」  裕昌のいろいろな知識の中で一つだけはじき出される答え。長い年月を経て、精霊や霊魂が宿り、自我をもって妖になることがある。唐笠お化けや瀬戸大将がメジャーである。 「付喪神……」 「その通り。その中でもかなり悪いほうのな」  人畜無害な五十鈴屋の妖たちより、目の前にいる黒い猫又より、刀の纏っている妖気は禍々しい。 「どうやってそんなに禍々しくなったのかは知らないが……あたしが全部断ち切ってやる!感謝しろ!」  そう吠えると、脇差と打刀が火花を散らしてぶつかり合う。刀の付喪神は重い刀をものともせずその細い腕で斬りかかる。黒音は片腕だけで刀をはじき返す。両者一歩も引かない攻防戦に、裕昌はその空気に呑まれていた。黒音が本気で戦う姿を見るのはこれが初めてなのだ。視えるようになったあの夜、あれはただただ邪魔だった霊を払っていただけだった。  はっと、裕昌は我に返る。ここで突っ立っている場合ではない。 「俺も何か……っ!?」  何か武器になるようなものを探そうとした瞬間、黒音が裕昌のすぐ横に吹き飛ばされてきた。その衝撃を回避すると、黒音はまた女に向かっていく。 「……無理か……」  黒音が吹っ飛んできた衝撃に思わず唖然。 さすがに生身の人間が突っ込んでいってもすぐに殺されてしまう。ふと、あの駅にいた霊のことを思い出した。裕昌は上木家の蔵に向かう。一番手前の書物の山の上に、あの手記があった。それを持つと、今度は上木家を飛び出して五十鈴屋へ向かう。 「おい裕昌!?」  黒音の声が聞こえるが、片手をあげて応じる。裕昌はわき目も降らず夜道をかける。走りながら裕昌は一種の後悔の念に襲われていた。
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