長夜の過去語り

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長夜の過去語り

 初夏の夜は日中の暑さが和らぎ、心地よい風を運んでくる。今宵は月も美しく輝き、庭の池に影を映して煌めいて見える。  湯上がりの火照りを冷ますように縁側に腰掛け、傍らには徳利とお猪口を乗せた盆を置き、田中幸正(たなかゆきまさ)は月見酒をしていた。  そこに静かな足音が聞こえて、田中はそちらへと視線を向ける。  夜の廊下で彼に出くわすと、一瞬幽霊にでも会ったかと思う。それくらい、彼の存在は人とは異なる。腰まである白髪に、透けるように白い肌、それに白い夜着を着ているのではそう錯覚しても仕方が無い。  彼はかなり距離があるというのに一瞬止まり、開かない視線を田中へと向けて笑みを向ける。 「田中様、夕涼みですか?」 「あぁ、そのようなものだ。お前もどうだ、ヨリ」 「良いですね。一つ、呼ばれましょうか」  再び歩き出す彼の足下は危うげがなく、しずしずと進む。壁に手をつくこともなく、まるで見えているかのように田中の所へと来ると、置いてある盆に引っかけることもなく座った。  いつ見ても不思議なものだ。彼の目は現を映さない。目を開けばぼんやりと影は見えるそうだが、全体が水墨画に更に霞をかけたような状態で用を足さないそうだ。にもかかわらず、彼は見えている者と同じように動ける。  「見えないからこそ、他の感覚に優れるのですよ」と、彼は言うが……やはり見えている田中には想像できないものに思った。  一つ多く置いてあったお猪口に酒を注ぐと、盲目の語り部ヨリはそれを綺麗な所作で持ち上げ飲み込む。そして嬉しげな笑みを見せた。 「いいお酒ですね。良い米と良い水から作られるお酒の味です」 「米所で、山からの綺麗な湧き水があるからな。今宵は綺麗な満月だぞ」 「おや、そうなのですか?」  彼は思わず両目を開ける。人では無い白銀の瞳はそれ自体が冴え冴えとした月のようでもある。僅かに青く光る目が魔物のものであると、誰が思うだろうか。 「残念ですね、見えないというのは」 「流石に感じられないか?」 「遠すぎますからね。太陽のジリジリと肌を焼く熱さや、季節の草木の香、吹き抜ける風を感じる事はできますが……月の姿を見ることは叶いません」  「寂しいですね」と言うヨリは、ほんの少し表情を落としてちびりと酒を飲み込んだ。常時は何を考えているのか読ませない男の、それは僅かに見えた人らしい心のように思えた。 「そういえば、真之介(しんのすけ)は大きく逞しくなりましたね」  不意に話を振られ、田中は静かに頷いた。  小姓の真之介は身寄りも無く、ちょっとした縁でここで預かっている。素直で賢く可愛い少年は田中の庇護の元、のびのびと羽根を伸ばしている。 「キョウが五月蠅いのですよ、また強くなっていたと。年齢が上がり、体も少しずつ出来てきますからね。強くもなるでしょう」 「真之介が聞いたら喜ぶだろうな。あの子はキョウの強さに憧れている」 「まぁ、自らを救ってくれた英雄なのでしょうね。実際は、死人の体に魂を押し込めた、霊とも魔物とも言えない存在なのですが」 「……」  これにはなんと返していいものか、田中も迷う。  七年前に起った事件で、田中は二人と初めて知り合った。そしてその時、二人の関係を知った。  ヨリは語り部の目を依り代に、死ぬはずのキョウの魂をこの世に留めて元の肉体に定着させた。その代わりにキョウが持つはずの魔物の目をヨリが持つ事になり、彼の目は人ではないものを映すようになった。  キョウはヨリに取り憑いていて、ヨリはキョウに依存している。この関係を二人は受け入れているし、ヨリは後悔していないという。  が、それにしてはなんとも後ろめたい顔をするものだ。 「真之介も知っている。それでもキョウは憧れだ。彼のように強くなり、力ない者を護れるようになりたい。あの子は純粋にそう思っているんだよ。キョウが何者でもね」 「いい子ですね、本当に。普通は気味悪がるものですが」 「まぁ、事件が事件だ。あの衝撃的な事件を思えば、キョウは十分な英雄…………いや、神にも思えたかもしれない」 「……あの事件は、確かに酷いものでしたね」  ヨリの言葉に、田中は自らの左腕に触れる。その様子を、ヨリは感じていた。 「気になりますか?」  問われて、田中は手を離す。そして首を横に振った。 「いや。ただ、時々思い出す事がある。アレは結局、なんだったのか」 「……私も未だ、納得のいく答えが出ません。故にあの魔物については未だに、語る事ができないのです」 「怪異語りのヨリが語れない怪異か。それは凄いな」 「…………あれは不幸を植え付けられた、冬虫夏草のような魔物だったのかもしれません。私が見えたものはほんの僅かです。感情が嵐のようで、映像は断片的です」  ヨリは見えない月を見上げ、珍しく目を大きく開ける。普段は閉じている瞳が月明かりに光る様は、怪しくも美しいものだ。  田中も同じく月を見上げる。綺麗な丸い月。そういえば、あの時も月は大きく丸く、そして血のように紅かった。
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