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きっかけ
実は、俺は一度就職に失敗しているのだ。就職活動を頑張って、中堅どころの建設会社に就職したのだが、内実はブラックで上司のパワハラに鬱病一歩手前の精神状態まで追い込まれて、飯も喉を通らないし、僅かな睡眠時間にも眠れなくなった。そんなギリギリだった俺を助けてくれたのが、七森課長なのである。
深夜のプラットフォームで、俺は電車が通り過ぎるのを、ただ立ち尽くして見るともなしに見ていた。どれくらいそうしていただろう。ポンポンと肩が叩かれた。振り返ると、端整な顔立ちの少し年上のスーツ姿の男性がいた。
「きみ、大丈夫かい? 」
「……」
心配そうな声を掛けられて、俺は俯いた。何も答えられない。大丈夫です、構わないでくださいって、そう言った方がいいと思うのに、俺は誰でもいいから助けてほしかった。縋りついて、助けてって、訴えたかった。そんなこと、出来るはずもない。だから、ただ黙っていた。何も言わない俺に呆れて、男性が去っていくのを待った。
「大丈夫じゃなさそうだね。ちょっとおいで」
俺の手を引いて、ベンチに座らせた男性は、内ポケットから名刺を取り出して、俺の手に握らせた。
「俺は七森幸也。その名刺にある通り、ただのサラリーマンだけどさ、話を聞くくらいは出来るから。裏に携帯番号も書いてあるから、いつでも連絡して。それから、これ飲んで。温かいもの飲むと、ちょっとホッとすると思うから」
渡されたのは暖かいお茶のペットボトルだった。
俺は、名刺とペットボトルを手に、茫然と男性を見上げた。
「逃げることも、大事なことだよ。覚えておいて。じゃあ、終電がなくなる前に帰りなよ」
真摯な表情でそう言って、男性は去っていった。
しばらく放心していたが、終電を告げるアナウンスに、俺は慌てて電車に飛び乗った。
名刺の番号に電話したのは、お礼が言いたかったからだ。就職してから、あんな風に俺に優しくしてくれたのは、七森さんが初めてだった。百六十円のお茶のペットボトル、僅かな金額だけれども、俺には、何よりも温かい贈り物だったのだ。
七森さんの言葉に励まされて、俺は会社に辞表を出した。再就職は厳しいかもしれないが、どんなことでもするつもりだった。見栄なんかない。仕事を選ぶつもりもない。俺一人が生きていけるだけのお給料が貰えるなら、正社員じゃなくてもよかった。失業保険が貰えるまでの間、コンビニのバイトをしながら、俺は再就職活動をしていた。まだ結果は出ていなかったが、そろそろいいかと思って、日曜日の昼頃、七森さんの番号をスマホに打ち込んだ。
「……はい、七森ですが……」
電話越しでも、低くて魅惑的な声。俺の鼓動はいつもより早くなる。
「あ、あの、俺、いえ、私は、以前○○駅でお名刺とお茶を頂いて。その節は本当にありがとうございました」
早口で、途切れ途切れにそう言った。スマホを握る手は汗で湿っている。
「あぁ、わかった。あの時の青年か」
七森さんが覚えていてくれたことが、とても嬉しかった。
「私は、真田昭利と申します。あの時、七森さんに声を掛けて頂かなかったら、私はどうなっていたかわかりません。本当にありがとうございました。あ、あの、それだけ伝えたかったんです。お茶代とか、もし宜しければ、お返しに伺っても構いませんか? 」
「うん。あの時より元気そうだね。お礼もお返しも気にしなくてもいいけど、君さえよかったら、一緒に夕飯でもどう? 一人飯も味気ないから、誰かと食べるのは俺の趣味なんだ」
「え、えっと、いつでしょうか? 」
「君さえよければ今夜でも」
「は、はい。大丈夫です」
気が付いたら、七森さんとその夜、一緒に食事することになっていた。俺は七森さんにもう一度会いたかったのだ。あの時のお礼に、なにかご馳走させてもらえればと、そう思っていたのに、結局、ご馳走になったのは俺の方だった。
聞き上手な七森さんに、再就職活動の話などをぽつぽつと話していると、もし良かったらうちにおいでと、誘っていただいた。明くる日に、クリーニングから帰ってきていたスーツを着て、久しぶりにネクタイを結んで、小さな不動産事務所を訪れた。
それが、俺が七森課長と一緒に働くことになったきっかけだった。
七森課長と付き合うことになったきっかけは、また今度。
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