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直樹は登山道具を磨く準備を整えた。
大学の山岳部時代から、ずっと使い続けた山道具から、何度も買い替えたものまで、どれもこれもに愛着を持っている。
新品を買ってわくわくした思い出、使い込んだものを譲って貰ったり、受け継いだりと、一緒に旅に出て来た道具たち。
過去が走馬灯のように蘇ってくる。
ピッケル、ザイル、つま先用アイゼン、登山靴、かかと用トリコニー、ベスト、ボアの手袋、登山テントにザック……。
山岳部の先輩たちが、大学の卒業を機に、登山は辞めると言った。
もちろん、無念だと言った。
未練なくして冒険を卒業することなど、できないものだ。
未知なるものが見たい。
誰も知らないものが知りたい。
目標を、自分の知恵と体力で達成したのだという喜びを味わいたい。
自分じゃない、仲間のことを自分のことのように大切にできる、そういう自分に出会いたい。
就職するから、家庭を持つから、と、先輩たちは日常の垂平の冒険家になっていった。
直樹は大学を卒業して、就職をしたが、同時に趣味で登山も続けた。
気づけば40代に突入し、今、あの伝説の冒険家・植村直己さんがマッキンリーで遭難したときの年齢と同じ、43歳になっていた。
それで、このたび、ずっと交際を続けていたアオイとの結婚を決めた。
中年になって、この先一人で生きていけるほど器用な人間ではないことを痛感している。
直樹は道具たちについた泥の汚れを拭き取る。
この作業が一番つらい。
登った山々が浮かんでくる。
旅するごとに、道具は傷んでいく。
傷み具合を確認するたびに恍惚した。
旅行する人間が、トランクにペタペタと貼られる出入国のステッカーをある種の誇りに思うような感覚に似ている。
今の時代の人は理解に苦しむだろうけど、
直樹の世代にはそんな感覚がまだほんのちょっと残っている。
いや、時代じゃなく、年齢的なものなのかも知れないな、と直樹は思った。
まだまだ無限に時間があると感ぜられ、どこへでも行けると思っていられる年齢のころには分からなかった。
でも、冒険できるのもあと何回だろうと勘定し始めると、妙に道具に対しての感慨がわいてくる。
直樹はふと、手の甲で目を押した。
登山道具を持っていると、またふらっと出かけたくなる性分なので、グッズは処分しようと思う、と妻アオイに打ち明けた。
アオイに対する落とし前的な意味でもあった。
ずいぶん長く引っ張ってしまった懺悔だ。
アオイはあっけらかんとした様子で、
「捨てちゃうんなら、オークションにでも出してみたら?」
と言った。
直樹に口も挟ませないうちに、
「欲しい人がいたら安く譲ってあげたらいいじゃない。捨てちゃったらそこまでだけど、オークションなら欲しい人の元へ行くんだし、道具も幸せよ」
と続けた。
やはり、か。
直樹は手のひらで頬をさすった。
直樹とアオイのあいだに、越えねばならない山がある。
ロマンについて、認識の違いがある。
そんなのないほうが気味が悪いが、ありすぎても先が思いやられる。
アオイはモノを大事にしたほうがいい。
お金になるならお金にしたほうがいい。
という。
直樹は、まず、道具はモノでありながらモノでないと思っている。
お金に換えられないものがあると思っている。
直樹は、現役を退くという決定的な人生の大イベントに、大きく戸惑っている。
道具があるから、冒険家でいられるわけではない。
でも、道具がなきゃ、冒険家ではいられない。
だから、道具は、直樹の進退そのものだった。
直樹はアオイの言う通り、登山道具をオークションに低価格で出品した。
グッズはモノによっては高値になるまで競られた。
あらかた売れてしまった。
「冒険に出る人がこんなにいるんだなぁ……」
入金確認し、発送の準備を整えながら、直樹の気持ちが疼きだす。
痒い、掻きたい。
一度はかさぶたになりかけた冒険心だったが、いっそのこと掻きむしって、冒険に出てしまいたい。
返金して、道具をザックに詰めて、出かけたい。
アオイのことはどうする……?
直樹はガオガオといびきをかきながら昼寝をしているアオイに目を向ける。
捨てがたい。
もちろん、この生活のことである。
直樹は目をつぶるようにして、段ボールをテープで閉じた。
ザックだけは、どうしても出品できなかった。
いっそのこと、捨ててしまったほうがいいと思った。
次のゴミの日に、いや、その先のゴミの日に、と思いながら、出せなかった。
やはり、どうしても冒険への熱意が捨てられないでいた。
ザックのなかには、捨てがたい思いが詰まっている気がした。
直樹はオークションに届く感謝の言葉や、高評価などに返信しているうちに、別の人が出品している登山道具を見るようになった。
結局、直樹はまた冒険グッズ一式を買い揃えてしまった。
金銭的に余裕がないため、オークションのなかで安く出ているものを譲って貰った。
以前持っていたものとは比べ物にならないくらいクオリティが下がる。
いわば、初心者向けといったところだろう。
あるいは、うまく改良できるような器用な人間向けってところだろう。
アオイにばれるまで、そう時間はかからなかった。
郵送される商品は、郵便局留めにしたはずが、一件だけ、その手続きを忘れてしまった。
仕事を終えて帰宅した直樹の前に差し出されたのは、段ボールだった。
アオイの目が怖い。
《登山道具在中》
の文字が書かれた伝票が貼られている。
「……わかったよ。俺も、やっぱりこれはまずいって思う。出品者にキャンセルさせて貰う。送料は元払いにして、送り返すよ」
直樹はネクタイを緩めながら言った。
「そんなの迷惑でしょ」
アオイが言った。
ごもっともだ。
「ほんと、しょうがない人ね。じゃあ、この道具を冒険に出したら?」
アオイの言葉の意味がつかめず、直樹は
「どういうこと?」と訊いた。
「ほかの冒険家に一式をあげるの。この道具が冒険に出ることになる」
アオイの言葉はなんとなくではあるが、一応、直樹を納得させるものではあった。
直樹は思い返す。
そういえば、今は人に譲ってしまった道具たちも、冒険を諦めた人間だちが決死の思いで譲ってくれたものだった。
その道具は、直樹と一緒に何度も冒険に出た。
あのまま、家に置いていても、いずれ朽ちていく運命だった。
目に見えるものには必ず終わりがあるものだ。
あの道具たちは、まだ、引退時ではなかった。
使い込んではいたが、モノがいいため、まだまだ冒険家をフォローできる力が十二分に残っていた。
だから、あの道具が、今度は別の主人と、冒険に出ることになったと想像すればいい。
「なるほど」
直樹は早速、グッズの画像を撮り、
《冒険グッズ一式を無料で差し上げます。》
と商品ページを作った。
《その代わりといってはナンですが、あなたがこれからしたい冒険、する予定の冒険、制覇したい山など、具体的なプランを教えてくれませんか?
あるいは写真なんかも見せてくれたら嬉しいのですが。》
と、見返りを求める文章を書いた。
直樹は文字を打ち込む手を止めた。
そんなことを訊かなくても、いいんじゃないかと思った。
冒険家は生きて帰るもの。
伝説の冒険家、植村直己の言葉だった。
だから、さっき書いた文章は消して、
《必ず生きて戻る冒険に出られる方に、差し上げます》
と書き直した。
そうだ。これだ。
直樹の元に、ある青年からのメッセージが届いた。
直樹は青年の瑞々しい感性に、夢を託した。
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