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第1章:陸(おか)の赤き姫と、海の青き人魚(4-3)
その晩、突然の嵐がエレフセリア沿岸に訪れた。
大粒の雨が強風に吹かれ、王宮の窓が壊れるのではないかとばかり、横殴りに叩きつける。アリトラの海は荒れに荒れ、波は大鯨がやってきたのではないかとばかりに膨れ上がっては深く沈み、を繰り返す。
アイビスが翼を仕舞っておく、小さな離れの小屋も、今にも倒壊しそうなほどにがたがたと揺れる。天井から吊るしたランプの炎は安定せず、手元をきちんと見ている事もできない。
(今日はこれ以上やるのは、無理ね)
折れた翼から、まだ使えそうな布をはぎ取る作業をしていた手を止め、アイビスはほうと溜息をつく。離れの外は相変わらず雨と風の音が激しい。これは嵐が去った後、浜辺に色んなものが打ち上げられているだろう。
毒海月が浜に散らばっていたら、子供達の身が危ない。エレフセリアの民は海の生き物に詳しく、水棲生物の危険度をわきまえているとはいえ、まだ知識が不足している無邪気な子供らは、綺麗な姿の銀貨海月などを見つけたら、嬉々として手を触れてしまうだろう。それは避けねばならない。
(明日、嵐が去っていたら、朝一で浜へ行ってみよう)
アイビスはそう決意し、翼の残骸を片付けると、離れの灯りを消した。
翌朝、エレフセリアの空は、昨夜の嵐が嘘のように青く澄み渡り、海は静かに凪いでいた。
早朝のひんやりした空気に包まれ、汐彩華が舞ういつも通りの浜を、アイビスは白い波に素足を洗われながら、ゆったりと歩く。
浜には流木や海の向こうからの硝子瓶などが打ち上げられていたが、危惧していたような、危険な生き物の姿は見当たらない。
「大丈夫、みたいね」
独り言を洩らして、ほうと息をついた時。
きらり、と。
汐彩華とは違う青い輝きが、浜の向こうで光ったのを見て、アイビスの心臓がどきりと跳ねた。
あの青は何だろう。紺碧の肌持つ海豚でも迷い来てしまったのだろうか。海豚の体重は人間より重い。アイビス一人の腕力で海に帰す事ができるだろうか。いやそれより、弱って死にかけていないだろうか。衰弱した海の生物は、海に戻る体力が回復するまで、王宮で保護してやらねばならない。それが遠い昔、エレフセリアの王が海と取り交わした約束だと言われている。それを果たすには、人を呼んでこなければならないだろう。焦る気持ちから、歩みは速歩に変わり、やがて駆け足になった。
だが、打ち上げられた『それ』を前にした時、アイビスは心からの驚きで言葉を失い、赤い目をみはって立ち尽くしてしまう羽目になった。
はじめは人間かと思った。青い髪を持つ、女性のように端正な顔は、苦悶に歪んでいくつもの新しい傷が走り、その目が開かれる事は無い。顔の造りに反して適度についた筋肉が、『彼女』ではなく『彼』である事を示している。
しかし、アイビスが驚いたのはその美貌ではなかった。
波に翻弄されたのだろう、痣だらけの上半身は人間のもの。ところが、そこから視線を下ろせば、下半身に当たる場所は、びっしりと青い鱗に覆われたている。それが太陽光を浴びて、目がくらむほどにきらきらと輝いている。
そんな姿を持つ者の名を、エレフセリアではこう呼ぶ。
『人魚』
『あなたは、海の底のひとと出会ったのよ』
亡き母の言葉が、王女の脳内で反響した。
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