第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(1-2)

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第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(1-2)

 汐彩華がまばゆく踊る中、人魚の青年を引きずるようにして、アイビスは一歩一歩を踏み締める。しとどに濡れて、ぺったりと顔に張り付いている青年の髪や身体から、アイビスの顔や服にも砂が移り、じゃりじゃりと口の中で音を立てる。魚の下半身についている鱗は鋭く、足をかする度に、幾つもの小さな傷をつけて痛みが走る。  だがここで、もう嫌だ、と投げ出す訳にはいかない。たとえ姿が違っても、彼もエレフセリアの人間と同じ、生命を持つ者だ。アリトラ海の恵みを受ける国の王女として、海に棲む者もこの手から取りこぼす事無く助けたい。  その一念で、引きずる跡と、鱗で切れた足から伝い落ちる赤の軌跡を砂浜に描きながら、いつもの倍以上の時間をかけて王宮に辿り着いた時。 「随分と遅かったじゃない、馬鹿妹。また馬鹿みたいに浜辺を走り回ってたの」  いつもと同じ、姉タバサの毒舌が出迎えた。 「まったく、あんたは幾つになったら落ち着くわけ? 王族の恥さらしったらありゃしな……」  鬱陶しそうに嫌味を吐く彼女は、香油をつけて入念に梳いた髪をかき上げる。そしてようやっとこちらに視線を向け、言葉を失い立ち尽くした。その赤い瞳は今、青い魚の鱗を映し出しているだろう。 「人魚よ」  目を見開いたまま絶句する姉に向けて、アイビスは真剣な表情で言い切る。 「お願い姉様、お医者様を呼んで。このひとを助けてあげて」  懇願にも、タバサはまだしばらくの間、ぽかんと口を開け、目を真ん丸くして、青の人魚を見つめていたのだが。 「……ふ、ふふ」  突然、目を細め、唇を三日月に象って、含み笑いを洩らし始めた。 「よくやった、よくやったじゃあない。愚か者もたまには益になる事をするのね」  そして彼女はぱんぱんと両手を打ち鳴らし、大声を張り上げる。 「ジャウマ! ジャウマはいて!? 他にも力のある奴は、一刻も早く来るのよ!」  その言葉に、真っ先に駆けつけたのは、名指しで呼ばれたジャウマ将軍だった。まるでそこいらの物陰で機を見計らっていたかのような素早さだ。それに続いて、腕力に自信のある兵士が数人、ばらばらとやってくる。  タバサはびっとアイビスを指差し、信じがたい事を言い出した。曰く。 「そこのぼんくらから、人魚を引き離しなさい。そいつを助けたのは、このあたし。いいわね」 「タバサ様の仰せのままに」  ジャウマが恭しく礼をして、姉の言葉に愕然と硬直するアイビスのもとへ近づいてくる。 「人魚を助けた恩を売れば、海の底にあるという王国へ案内してもらえるかも知れないでしょう? 海底のお宝でエレフセリアが」  言いさして、いいえ、とタバサはこうべを横に振り、そばかす顔に喜色を満たして両腕を広げた。 「このあたしが、伝説の継承者として歴史に名を残すのよ! ああ、一人で頑張っていた日頃の行いが物を言うわね!」  我が姉ながら、何という傲慢だろう。そもそも、人魚の存在など信じていなくて、アイビスを嘘つき呼ばわりして否定したというのに。言い返す気力をも失って呆然とするアイビスの手を、ジャウマ将軍が力強くつかむ。 「さあ、姫様。そのひとでなしをお渡しください。海の民は伝説の中にしかありません。姫様にどのような悪さを働くかわかりませぬゆえ、後は我らにお任せを」  その言葉にアイビスが示した反応は、人魚の手首を握る手に、更に力を込める事だった。彼が姉の手に渡ったら、一体どんな仕打ちを受けるかわかったものではない。だが、所詮若い少女の腕力。成人男性の力の前にあっさり手を引き離され、青い人魚はジャウマの小脇に抱え込まれた。 「リザが使っていた部屋に、放りっぱなしの水槽があるでしょ。それに水を溜めて放り込んでおきなさいな」 「はっ」  アイビスの母親を呼び捨てにし、姉が将軍と兵士達を引き連れて、踵を返す。誰もが、アイビスをねぎらうどころか、一顧だにせず。  厚意から助けた人魚が、姉の欲望の道具として使われてしまう。その失意と、彼を助けて本当に良かったのだろうかという後悔が湧いて出て、今更膝が震え出す。  その膝も、人魚の鱗で切りまくって傷だらけだというのに、婚約者はそれすら労らずに、姉と共に行ってしまった。  様々な絶望感が、アイビスの胸の内で黒い渦を巻き、深き場所へと落ち込んでゆくのであった。
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