第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(4-2)

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第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(4-2)

「君、怒られる。あいつ、すぐ、()つ」  たった半日の間で、タバサの性格を嫌というほど思い知ったのだろう。青年の顔に不安げな表情が浮かぶ。だが、アイビスの思い定めはそれで道を逸れるものではなかった。 「大丈夫よ。姉様の怒りを受け流すのは得意だから」  口の両端を持ち上げて笑みを返し、腰に帯びていたポーチから、油紙で包んで厨房から持ち出した白パンを取り出す。 「おなかが空いているでしょう? 口に合うかはわからないけれど」  人魚は海の生物に近い食事をしているだろう。陸の人間の食べ物を受けつけないかもしれない。しかし、青年は興味深そうに目をみはると、差し出された白パンに顔を近づける。すんすんと鼻をきかせ、じろじろと見回し、水かきのついた両手を、そっとのばした。  ひやりとした感覚が訪れ、そうして、白パンと共に離れてゆく。かぷり、と噛みついた途端、青年の顔がぱっと明るく輝いた。 「おいしい」  一言、そう洩らしたかと思うと、むしゃむしゃとかぶりつく。きちんと咀嚼しているのか、喉に詰まらせはしまいか。アイビスがはらはらしながら見守っている間に、青年はぺろりと白パンを平らげ、指についたかすを、名残惜しそうにぺろぺろと舐めていた。 「あり、がとう」  青年が蒼の瞳を細めてにっこりと微笑む。顔のつくりは端正な男性なのに、笑うと遠き日のように無邪気な少年の面影が姿を現して、アイビスの心臓はとくとくと脈を速くした。 「ど、どうも」  この動揺が相手に見抜かれていたら、相当恥ずかしい。気を紛らせる手段を探して思考を彷徨わせ、アイビスの思いはひとつの事象に辿り着いた。 「あなたの」その思いを、舌に乗せる。「名前を教えて」  問われた途端、青年も、忘れていた、とばかりに目を真ん丸くしたが、すぐに笑み崩れる。 「サシュヴァラル!」  水槽から身を乗り出さん勢いで己の名を叫び、落ち着け、と先程アイビスに釘を刺された事を思い出したか、気まずそうな表情をして首をすくめた。  そんな反応も微笑ましい。アイビスは口元をゆるめ、「サシュヴァラル」と、彼の名を口の中で繰り返す。 「少し、呼びづらいわね」  海の民の名は、エレフセリアの民とは命名規則が異なるのだろうか。顎に手を当ててしばし思案する。魚の下半身を水の中でゆらゆらさせながら、アイビスの言葉の続きを待っていたサシュヴァラルを見上げ、「じゃあ」と、思いついた一案を口にした。 「短くして、サシュ、っていうのはどう? 愛称をつけられるのは、嫌い?」 「サシュ」  きょとんとおうむ返しにする青年の顔が、再び喜色に満ちてゆく。「サシュ!」と口を笑みの形にすると、狭い水槽の中をばしゃばしゃと泳ぎ回り、 「サシュ、アイビスに、呼び方、もらった! サシュ! 嬉しい!」  と、まるで初めて目にするケーキを前にした子供のようにはしゃぐ。 「ちょ、ちょっと、落ち着いて」  さすがにこの声は外に漏れるだろう。扉の前の不寝番が気づいてしまう。はらはらしたまさにその時、部屋の外側から鍵が外れる音がして、アイビスはぎゅうっと心臓が締めつけられる思いにとらわれ、人魚――サシュヴァラルもはっと我に返って静まった。  折角ここまで来たのに、彼を海に帰す事に失敗してしまう。自分がタバサに打たれるのは構わない。だが、この純真な人魚が、姉の欲望を満たす為に使われ、運が悪ければ命を落としてしまう。それが、自分の身に危害が及ぶ事よりも怖かった。  そろそろと、腰の守り刀に手を伸ばす。実際に命を奪うつもりは毛頭無い。たとえ姉の言動が悪だったとしても、誰かを手にかけてしまえば第二王女といえど無罪では済まない。威嚇に使えれば充分だ。何より、日頃より正式な訓練を受けたエレフセリア兵に、護身程度の短剣の振り方を教わっただけのアイビスが、上手(うわて)に立ち回れるとは思えない。  緊張に、得物を握る手は細かく震え、掌にじっとりと汗をかく。サシュヴァラルも、アイビスのただならぬ様子に気づいたのだろう。不安げな表情を浮かべ、水槽の中でゆらゆら揺蕩いながら、じっとこちらを見守っている。  だが、しかし。 「アイビス」  静かに呼びかける声には、確実に聞き覚えがあった。軋んだ音を立てて扉が開かれ、部屋に入ってきた人物の顔が、ランプの明かりに照らし出された事であらわになる。炎を宿した黒の瞳が、気遣わしげにこちらを見つめている。  何故彼がここに、という思いで、アイビスは、ぽろりと唇からこぼれ落ちるように相手の名を呼んだ。 「……ファディム」
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