第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(5-1)

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第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(5-1)

 暑さからではない汗が背を伝い、すぐに冷えてゆく。  まさかこの柔弱な義兄がここに現れるとは思っていなかったので、アイビスの身体は緊張から、かたかたと小さく震えた。  いくら普段頼り無い優男といえど、一国の王子。幼い頃から武芸をたしなみ、アイビスの細腕が振り回す短剣など容易く打ち落とすくらいの体さばきは心得ている。まともに向かい合ったら勝ち目は無い。  あんなに侮蔑されていたのに、この期に及んで、姉の味方をするのか。いや、今だからこそ、点数を稼いで姉のご機嫌取りをするつもりなのか。背後でサシュヴァラルが歯をむき、低く唸っている声も遠く聞こえる。  だが、ここで怖じ気づいて逃げ出す訳にはいかない。かつて出会った海の少年サシュヴァラルを、無事に海へ帰すと決めたのだ。ぎんと相手を睨みつけ、汗でぬめる短剣を握り直す。  ファディムはその様子を、やけに感情の乗らない目でじっと見つめていたのだが。 「アイビス」  不意に、いつもの優しい声で呼びかけて、相好を崩した。 「そう警戒しないで。僕は君の味方をする」  言いながら彼は静かに近づいてきた。サシュヴァラルがことさら深い唸り声をあげるのにも怖じ気づかず、優しい手つきでアイビスの手から短剣を抜き取り、そっと鞘に戻す。  どうやって扉前の見張りをかわしてきたのだろうか。疑念は顔に出てしまっていたらしい。ファディムはくすりと笑って、短剣を戻したのとは逆の手に握っていた酒瓶を、得意気にかざしてみせた。 「睡眠薬は少量しか入れていないから、身体に大きな負担をかける事は無いだろうけど、むこう半日は目覚めないだろうね」  悪戯っぽく笑ってみせる義兄の姿に、アイビスはもう、ぽかんと口を開けて立ち尽くすしか無かった。いつも姉の顔色をうかがってびくびくしていた彼が、随分と大胆な行動に出たものだ。更に驚くべき台詞を、彼は続ける。 「子供達に手伝ってもらって、離れから、君の翼の試作品を持ち出した。いつもの丘に置いてある」  最新の翼はぐちゃぐちゃに壊れてしまった。だが、初めて空を舞う事が出来た試作品は、離れの片隅にずっと置いてあった。それを知っているのは、アイビスの滑空癖を一番近くで見て、離れにも案内した事があるファディムだけだ。 「皆には、アイビスが夜間飛行の練習をするけれど、誰にも見られたくないって言ってたから秘密だよ、って言い含めておいた」  唇の前に人差し指を立てて、彼はくすりと笑みを洩らす。 「……どうして?」  何故、政略結婚とはいえ愛すべき妻ではなく、ただの義妹の為に、配偶者に不興を買う事を承知の上で、力を尽くしてくれるのか。不安すら湧いて訊ねると、ファディムはふっと笑みを消し、真剣な瞳でアイビスを見つめ、そっと温かい手が頬に触れた。 「誰も味方じゃあないこの王宮で、君だけが僕に対等に接してくれた。君だけが味方で、友人で、家族だった。いつか君が本当に困った時、君の力になれるなら、何でもしようと、心に誓っていた」  告白にも近い口上に、アイビスは思わず目をみはってしまう。彼の手はほんのり温かく、海の民であるサシュヴァラルとは好対照だという事を教えてくれる。だが、選ぶ言葉は違えど、向けられる想いは変わらない。心臓が逸り出す。こんなに真率な義兄に先程疑いをかけてしまった事を、深く恥じ入った。  必要以上に近づく二人を見て、人魚の青年が不機嫌そうにまた唸り声をあげるのが、少し遠く聞こえる。意外と嫉妬深いのかも知れない、という考えが、呑気に脳裏を巡った。
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