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第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(5-2)
「さあ、時間が無い」サシュヴァラルのやきもちに気づいているのかいないのか、ファディムは手を離し、外を指差す。「人が来る前に、行こう」
最前まで彼の手が触れていた頬をおさえながらおずおずとうなずき、しかしアイビスは、ひとつの懸念事項に思い至る。
「どうやって、彼を丘まで?」
サシュヴァラルを見やる。彼の下半身は立派な鱗持つ魚のものだ。アイビス一人で運ぶ時は相当な労力を強いられた。ファディムと二人がかりでも、結構な時間がかかってしまうだろう。その間に姉に気づかれ追いつかれる可能性が高い。
すると、何を話しているのかわかったのか、サシュヴァラルが「大丈夫」と八重歯を見せた直後、くるりと水槽の中で一回転した。直後、青の鰭が消え、すらりとした、人間と同じ足が現れたのである。
当然のごとく、一糸まとう事無く。
アイビスは抑えた悲鳴をあげながら赤くなった顔を逸らし、ファディムが困った表情で周囲を見渡して、カーテンをはぎ取ると、「これで身体を隠して」とサシュヴァラルに差し出す。人魚の青年は、二人の反応の理由をよくわかっていない様子ながらも、水槽から出る。そして、ファディムに敵意丸出しの視線を向けながらカーテンを受け取り、胸から腿を覆うように巻き付けた。
「急いで」
義兄に促され、アイビスは入ってきた窓に取り付き、鍵を跳ね上げる。窓を開け放って振り返ると、サシュヴァラルがいつの間にか横に立っていた。その手をしっかり握れば、表情を明るくする。そんな無邪気な彼を引っ張って、再び窓を乗り越え、裏庭へと飛び出す。普段人魚の姿で泳いでいる青年に地面を駆ける力はあるかと危惧したが、サシュヴァラルは強い足取りで草を蹴って、アイビスの駆ける速度にしっかりとついてきてくれた。
その後をファディムが追ってくる。普段腰に差しっぱなしで、『軟弱王子のお飾り』とジャウマが嘲ってすらいた事のある、銀の剣を鞘から抜き放ち、油断無く周囲を見渡しながら。次期エレフセリア王として心許無い、と誰もが評していた彼の想定外な気概に、アイビスも舌を巻くしか無い。
裏庭を走り抜け、林の中の踏み締められた道を駆けのぼって、いつもの丘へ。夜の潮風に浜辺から吹き上げられた汐彩華が、月明かりを受けて、ぼんやりと淡い青白さを伴ってちかちかと舞っている。エレフセリアでもこの時期にしか見られない事から、潮の混じらない水場で夏に飛ぶ光虫の名を戴いて、『汐火垂』と呼ばれている現象だ。
そんな汐火垂の群れに見守られる中、アイビスは翼を手早く点検する。初めて空を飛んだ時の試作品ゆえ、先日の最新作には精度が及ぶべくも無いが、人二人を抱いて飛ぶのに支障は無さそうだ。
「ありがとう、ファディム」
振り向けば、義兄はほのかに微笑んで、礼など要らぬとばかりに首を横に振る。
言葉以上の感謝を胸に抱きながら翼を背負うと、サシュヴァラルに手を伸ばす。青年は唇を引き結び、手を握ると、ぴったりとアイビスに寄り添ってきた。
婚約者のジャウマにさえ、ここまでの密接を許した事は無い。異性――しかも子供の頃憧れた少年――が接近している事に、どきどきと胸が高鳴ってしまう。しかし今は、照れたり恥ずかしがっている場合ではない。遙かなるアリトラを見つめ、一刻も早く、翼が乗る事が可能な風が訪れる事を待つ。いつも以上の緊張に、両の掌はじっとりと汗をかき、軽い木と布で組んだはずの翼が、普段感じているよりもずっしりと身にのしかかってくる。サシュヴァラルが、心配そうな色を宿した蒼海の瞳を向けてきたので、「大丈夫、怖がらないで」と、やや強引に笑顔を作って返した。
右へ、左へ。汐火垂が淡い風に流されてゆったりと揺れる。良い風が来ない事に、じりじりと焦りは募り、悪態をつきそうになった時、これだ、と思う風が吹いた。
だが、直後。
「アイビス!」
空気を裂く音と共に飛来した細長い何かが、アイビスの背を守るように飛び出したファディムの肩を直撃した。彼は剣を取り落とし、呻きながら肩をおさえて屈み込む。
「ファディム!?」
驚いて、悲鳴じみた声をあげてしまう。彼の肩に矢が刺さり、流れ出す血が、彼の服を赤く染め、おさえた指の間も伝い落ちて、地面に染み込んでゆく。
一体誰が、こんなひどい事を。混乱に陥るアイビスの思考に割って入ったのは。
「まったく、本当に馬鹿ばっかりね!」
いつも聞いている嫌味に満ちた声に、更にあくどさを加えたものだった。
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