第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(5-3)

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第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(5-3)

「どいつもこいつも阿呆だとは思っていたけれど、このあたしの邪魔までするほど愚かだとは思ってなかったわ」  姉タバサだった。当然のごとくジャウマを隣に従え、弓矢を構えた兵士を数人連れている。その顔は怒りに歪み、邪悪、とも言える様相を呈していた。 「人魚を捕まえなさい」彼女は冷たい声で、ジャウマと兵士達に命じた。「あとは死んでも構わないわよ」  ざ、っと。アイビスの頭から血の気が引く。サシュヴァラルが再び姉の手に落ちかねない危機を感じたからだけではない。彼女は今、アイビスとファディムを、「死んでも構わない」とはっきり断じたのだ。  そこまで、嫌われていたのか。そこまで、邪険に扱われていたのか。身内の情はどこかに存在すると、微かな望みを託していた事さえ、無意味だったのか。無力感に襲われるアイビスだったが。 「死なない」  アイビスにしがみついていたサシュヴァラルが、その腕に込める力を一層強めた。 「アイビス、死なない。狙う、奴、サシュ、許さない」  自身も危険な目に遭っているというのに、こちらを気遣ってくれるその思いに、目の奥がじんわりと熱くなる。 「……アイ、ビス」  更に背中を押してくれたのは、ファディムの声だった。肩をおさえてうずくまりながらも、必死に痛みをこらえる真剣な表情で告げる。 「僕の事は気にしないで。行くんだ。海へ」  本当は駆け寄って、矢を抜いて手当をしてやりたかった。彼も連れて三人で飛び立ちたかった。だがそれはかなわぬ事であるし、アイビスが自分の為に時間を浪費するのは、ファディムの望むところではないだろう。  最高の風が去ろうとしている。今までの経験から、アイビスは感じた。それはファディムも気づいたらしい。 「行くんだ、アイビス!」  叱咤に背を押され、アイビスは地を蹴り走り出した。翼が風をつかんだところで、たん、と跳ね、地面に別れを告げる。いつもより重みを抱えた翼は、一瞬下降しかけたので、ひやりと背筋が寒くなった。だが、すぐに均衡を取り戻し、アイビスとサシュヴァラルは汐火垂と共に空を舞う。  ファディムは大丈夫だろうか。気になって肩越しに振り返った時、ジャウマがファディムに蹴りを入れ、義兄が崖から落下してゆく光景が見えて、心臓がぎゅっと締めつけられた。  姉は遂にやってしまった。ディケオスニ王国との関係は砕け散るだろう。いや、姉なら「悲しい事故であった」といくらでも弁を繕って、いけしゃあしゃあと報告するに違い無い。その後は、最も自分をおだててくれるジャウマを相方に据えて、やりたい放題だ。病床の父から王位を譲渡させるのも簡単だろう。  その為の障害であるもう一人が誰か。アイビスがその考えに至るのを待っていたかのように、丘から幾筋もの矢が、こちらに向けて飛んできた。矢は翼の布を貫き、骨組みにぶつかって、試作品を容易く破壊する。  壊れた翼に巻き込まれ、きりもみしながら、アイビスは海面に向かって落ちてゆく。昼とは違う暗い海は、ひとたび呑み込まれたら二度と帰ってこられない深淵へ引きずり込もうと腕を伸ばしているようで、恐怖をもたらす。  だが。 「怖がら、ないで」  決意を込めた低い声と共に、サシュヴァラルがアイビスを抱く腕に、より一層の力を込めた。かと思うと、しゅるりと音を立てて、足が人間のそれから、元の魚のものに戻る。 「サシュ、アイビス、守る」  冥府の入口のような海に叩きつけられる直前、青い泡が現れ、二人をすっぽりと包み込んだ。泡は静かに着水し、海水が流れ込んでくる事無く、ゆっくりと沈み始める。 「海の、底。地上の、民、少し、つらい。飲んで、しばらく、我慢、して」  至近距離でサシュヴァラルの声が聞こえたかと思うと、深海色の瞳が間近に迫り、唇が重なる。それと同時に、塩辛い液体が口内へ流れ込んできたのだが、口を塞がれているし、サシュヴァラルが「我慢して」とわざわざ前置きしてくれたのだ。大丈夫だろう、と判断し、こくりと飲み下す。  途端、抗いがたい眠気がアイビスを襲い、意識が遠ざかってゆく。  水面に舞い降りた汐火垂がきらきら輝いて揺らめいている光景も、次第に見えなくなってゆくのであった。
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