第3章:水底に揺蕩う雪(1-1)

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第3章:水底に揺蕩う雪(1-1)

 ちらちらと、白く細かい何かが視界を漂う。 『海の中でも雪は降るのよ』  そう話してくれたのは、たしか母だったか。『灘雪(なだゆき)』と、どこか懐かしそうな目で遠くを見つめて、その名を呟いていた母の横顔は、今も記憶に残っている。 『実際には、小さな生き物の死骸が、海底に降ってくるだけなのだけれどね』  母は苦笑したが、大陸南方に位置するエレフセリアに、雪は降らない。本物の雪すら見た事の無い自分にとっては、どんなものか想像がつかない。だが、だからこそ、心惹かれる現象として、胸の奥に根付いていた。 「――ビス。アイビス」  その『灘雪』を思わせる白に囲まれた中、自分の名を呼ばれて、アイビスの意識はゆるゆると現実に導かれてゆく。聞き覚えはある声だが、今までよりも、より明瞭で、力強い。 「大丈夫か」  深海の蒼い瞳が、不安げにこちらの顔を見つめている。その端正なつくりは、女子でも嫉妬を覚えるほどに美しい。ぼんやりとそう思った時、水かきを持つひんやりとした手が頬に触れ、髪を払ってくれた事で、アイビスははっと覚醒した。  淡紅色の珊瑚礁が遠くまで広がり、色とりどりの魚が、すぐ脇を泳ぎ抜けてゆく。その中で、白い灘雪がふわふわと踊っている。ここは水の中ではないか。そう思い至った瞬間、息が出来ない、とアイビスは心底焦って、むせ込みながら無闇に手足をばたつかせた。  突然腕の中で暴れ出した少女の拳が顔をかすめた事で、腕の主――サシュヴァラルが一瞬驚きの表情を浮かべる。それから、きかん気の子供をあやすようにとんとんと肩を叩いてなだめてきた。 「アイビス、落ち着いて。平気だから」  彼の声が、するりと耳に滑り込んで、じんわりと身に染み渡ってゆくようだ。「深呼吸をして」と言われたので、ひとつ、大きく息を吸い込む。口の中に、空気ではなく海水が入り込んでくる感覚がしたが、しょっぱさは無く、息が詰まる感覚もしない。ゆっくりと吐き出せば、やはり大気の泡ではなく、水が流れ出て、周囲の海水に溶け込んでいった。 「すまない、怖い思いをさせて」サシュヴァラルが申し訳なさそうに、愁眉を曇らせる。「だけど、地上の人間が海底に順応するには、まずは人魚の血を飲むしか無いんだ」  よくよくサシュヴァラルの顔を見れば、思い切り唇を噛み切った痕があり、じんわりと周囲の水に赤を混じり込ませている。 「そんな、わたしの為に」  傷ついていた彼に、さらに傷を負わせてしまった事が申し訳なくて、アイビスは彼の唇に手を伸ばす。清冷とした柔らかい感触が指に触れ、サシュヴァラルがくすぐったそうに目を細めた。 「あ、ごめんなさい」  もしかしたら、くすぐったいだけではなくて、まだ痛みが走るのかもしれない。すぐに手を離したが、その手に一回り大きな手が重なり、きゅっと握り込まれた。 「君のせいじゃあない」  彼がふわりと浮かぶような柔らかい笑みを見せる。 「俺こそ、それしか生き残る道が無かったとはいえ、君の意志も訊かずに海へ連れてきてしまって、すまなかった」  その口ぶりに、アイビスはきょとんと目を見開き、それから数度、瞬きをする。本当に彼は、先程までの無邪気な人魚なのだろうか。拙い喋り方ではなく流暢に聞こえる。しかも、「僕」ではなく、その秀麗な顔で「俺」などという一人称を使うのだ。あまりの差に、心臓がばくばくと妙な鼓動を刻み始める。  アイビスの頬に朱が差した事で、気づいたのだろう。「驚いたかい?」とサシュヴァラルが軽く肩をすくめる。 「今までは、君と話せるように、覚えた地上の言葉を使っていたんだ。だけど地上の言葉は難しくて、全然上手くならなかった。君が俺の血を飲んだから、人魚の言葉も通じるようになったんだ」  そうして彼は、心底嬉しそうに笑みを閃かせる。 「これでやっと、君と話す事にもどかしさを覚えなくて済む」  口ぶりは逞しくなったのに、笑み崩れる顔は、やはりどこか無邪気な少年らしさを備えている。その違いに思考がついてゆかず、視界を舞う灘雪が、汐彩華よりもまぶしくちかちかして見え始めた。
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