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第3章:水底に揺蕩う雪(1-2)
「……大丈夫かい、どこか具合が悪い? まれに人魚の血に拒絶反応を示す人間もいるから」
サシュヴァラルが心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。ぐっと距離が近くなった事で、アイビスの心臓がまたも滅茶苦茶に騒ぎ出す。
「だ、大丈夫! 何でもないわ、ほら!」
気恥ずかしさを隠そうとぶんぶん振った腕が、またやサシュヴァラルの鼻先をかすり、彼が少々驚いた様子で軽く半身を引く。それでアイビスは、自分の言動が先程から彼を翻弄している事を自覚した。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて何度も頭を下げれば、しかしサシュヴァラルはくすりと笑みを洩らす。そして「構わないさ」と水かきのついた手で、こちらの頬をするりと撫でた。
「ずっと、手の届かない君を見ていた。こうして触れ合えて、語り合えるようになった嬉しさに比べたら、君の予想外の行動も、気まぐれな魚より遙かに可愛いものさ」
地上の時に比べて、遙かに饒舌だ。しかも両手で顔を覆いたくなるような甘ったるい台詞を吐いてくるものだから、アイビスの心拍数は上がりっぱなしだ。肌に触れる水の感触はたしかに冷ややかなのに、頬は熱を持って火照っているのが、嫌というほどわかる。
そんな少女の面映ゆさを、わかっているのかいないのか、人魚の青年は眩しそうに目をすがめて見つめ、それから再度手を差し伸べる。
「行こう。母上に会ってくれ。新しい訪問者は、まずは海の王に挨拶するのが流儀なんだ」
いきなり親とご対面とは、サシュヴァラルも相当気の早い青年だ。更に沸騰しかけた頭が、一つの言葉にふと、冷静さを取り戻す。
青年の口ぶりでは、海の王とは彼の母親らしい。それはすなわち。
「あなた、王子様なの!?」
思わず素っ頓狂な声が、アイビスの喉から放たれた。そんな大層なひとと、言葉を交わし、唇を触れ合い、あまつさえ、二度も殴りかかるところだった。いや、問題はそこではない。そんなに海に近いひとが、どうして嵐に巻き込まれてエレフセリアの浜辺に打ち上げられていたのか。
「嵐の夜に散歩をするのが趣味なの?」
前提を音にする事をすっ飛ばして、思ったままを口にすると、それでもサシュヴァラルは理解してくれたらしい。深海の瞳を決まり悪そうに細めて、肩をすくめた。
「君は波風の強い日にも、敢えて飛ぼうとした事が、何度もあるだろう? だから今回も飛ぶつもりじゃあないかと気になって海上に出たら、高波に巻き込まれて。俺とした事が迂闊だったよ」
アイビスはぱくぱくと口を開閉して、唖然とする事しか出来なかった。今度も自分のせいか。あれだけのひどい怪我を負わせた上に、更に姉タバサの手で苦しめられた原因が、己にある事がわかって、申し訳無さで胸が一杯になる。
だが、サシュヴァラルは、責任の所在を殊更吊るし上げようとする性格のひとではなかった。この話は終わり、とばかりに優しく微笑んで、差し出していた手を伸ばし、アイビスの手をぎゅっと握り込む。
「行こう」
魚の尻尾を優雅に翻して泳ぎ出す彼に手を引かれるままに、アイビスも水を蹴る。逞しい裸身をさらしている彼と違い、服をまとったままなので、動きが妨げられはしないかと心配になる。だが、水はエレフセリアに吹く追い風のごとく優しくアイビスを包み込む。まるで最初から海底での泳ぎ方を知っていたのではないかとばかりに、彼女は海中を舞った。
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