第3章:水底に揺蕩う雪(2-1)

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第3章:水底に揺蕩う雪(2-1)

 海の底には、ただ暗い深淵が広がっているだけかと思ったが、実際に目の当たりにする海中は、地上では見られない美しさに満ちていた。緑の草原に咲く色とりどりの花の代わりに、青の水の中で鮮やかな色の魚が踊っている。時折、鋭い牙を持つ鮫が長い体をくねらせて脇を泳いでゆくのには、噛みつかれやしないかと身をすくませてしまったが。 「心配無い」  サシュヴァラルがくすりと笑って、アイビスの手を引き身を寄せてくれた。 「海の生き物は海の民とその血を受けた者を、同類と見なしてくれる。まれに襲いかかってくる奴もいるけれど、それは腹を空かせすぎて狂ったり、こちらから過度な手出しをした時だけだ」  そうは言われても、毎年海で犠牲になる人間が出る生物に対して、すぐに恐怖心が消える訳ではない。サシュヴァラルからはぐれないように、ぎゅっと指に力を込めれば、優しく握り返す感触があった。  そんな海の中を、どれくらい泳いだだろう。数分か、数十分か。時間の感覚さえ曖昧になってきた頃、アイビスの目の前に、突然一面の白が現れた。  それはエレフセリアの王宮とは違う、書物の設計図でしか見た事の無い『城』を思い起こさせた。海底に転がる白い岩を運んできて切り出したのだろう柱や壁で組まれ、硝子の無い窓からは魚が自由に出入りしている。多くの蛍烏賊(ほたるいか)が発光しながら周りをふよふよと漂い、その威容を照らし出していた。  サシュヴァラルは迷わずその城へと向かってゆく。地上とは技術が異なるのか、見た事も無い波打つ紋様が彫り込まれた、入口と思しき大きな門に、青い髪の女人魚が腕組みをして寄りかかっている。彼女はこちらの姿をみとめると、ややまなじりのつり上がった青い目をこちらに向けて、わざとらしく溜息をつきながら、腰に手を当てた。 「やっと帰ってきた訳?」  その顔にはまだ幼さが残り、アイビスより年下ではないかとも見える。青の光がじろりとこちらに向き、呆れたように細められた。 「しかもとうとう攫ってきちゃってさ。怒られても知らないよ」 「だから怒られない為に、すぐに母上にお会いしたいんだ」  刺々しい言葉にもサシュヴァラルは動じず、少女に問いかける。 「母上は、王の間か」 「そうだよ。あんたの捜索に、そろそろ兵を動かそうかって、ひとを集め始めたところだ。せいぜい深々と頭を下げるんだね」  そう言い残すと、人魚の少女はぷいとそっぽを向き、悠々と泳いで城の奥へ消える。王子であるらしい彼に対して、随分とつっけんどんな態度で接する子だ、とアイビスは驚きに目を白黒させたが、当のサシュヴァラルは気分を害した様子も見せず、アイビスを促して城内へと泳ぎ入った。
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