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第3章:水底に揺蕩う雪(2-2)
海の城は天井が高く、海月が頭上をふよふよと漂ったり、海亀がゆったりと水をかいて進んだりしている。サシュヴァラルや先程の少女のような、ひとに近い形をした者は少ないのかとはじめは思った。が、こちらをうかがうような視線を複数感じて、こうべを巡らせれば、あちこちの柱の陰から、老若男女問わない人魚が顔をのぞかせ、囁き交わしている。
「人間だ」
「サシュヴァラル様が連れてこられたのか」
「難破以外で人間が来るのは、いつぶりだろう」
どうやら物珍しさに好奇心がそそられるのは、お互い様のようだ。そう思うと少しだけ緊張が解けて、亜麻色の髪をした小さな少年に笑顔で軽く手を振れば、少年は青い目を真ん丸く見開いた後、ぱっと表情を輝かせ、ぶんぶんと手を振り返してくれた。
「殿下」「お帰りなさいませ」
そんな興味のまなざしの間から進み出てきたのは、大人の身の丈はあろう銛を手にした、二人の男人魚だった。先程の少女が「兵」と口にしていたから、恐らくそうだ。海底にも軍の概念は存在するのだろう。
彼らに導かれるまま、門と同じ波の紋様が刻まれた扉をくぐると、よく磨かれた白い床が広がって視界を覆う。そのあまりの明るさに、アイビスは一瞬目眩を起こしてしまった。だが、数秒ぎゅっと目をつむって、ちかちか瞬く星を追い出すと、ゆっくりと目を開く。そしてぱちくりとまばたきをした。
銛を持った兵達が、両脇にずらりと並んでいる。その奥には、白い玉座があって、巨大な真珠を取り付けた錫杖を手にした女性の人魚が座し、こちらを見やった。
アイビスはサシュヴァラルに手を引かれ、兵の見守る中を奥へと進む。そして女性から十歩ほど離れた場所で止まって、傍らの青年に促されるまま、女性に向かって深々と頭を下げた。
「母上、ただいま戻りました。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「まったくだの」
サシュヴァラルの挨拶に、呆れたような溜息が降ってくる。
「我が放蕩息子が連れてきた、地上の王女よ、面を上げい」
艶を帯びているが、この海でこのひとに逆らってはいけない、という畏怖を与える、そんな強さを込めた声だ。言われるままにアイビスは頭を上げ、初めて海の女王の顔をしっかりと見つめた。
珊瑚の冠をかぶった青い髪は長く波打ち、時折水の流れに合わせてゆらゆらと揺れる。切れ長の深海色の目はサシュヴァラルと母子である事をたしかに思わせ、鼻筋がすっと通り、美人である事を如実に示している。魚の下半身は、蒼を基調にした鱗が、周りの光を反射して、ところどころが虹色にてらてらと輝いている。女王に相応しい美しさだ。
だが、その厳しめな視線が、アイビスをまじまじと眺めて、驚きに見開かれた。「リーゼロッテ……」と、唖然とした声が、青で彩った小さめの唇から零れ落ちる。何をそんなに驚いているのだろう。小首を傾げると、女王はわざとらしく咳払いをして体裁を繕い、すっと背筋を伸ばして威厳を保ちながら口を開いた。
「よく来たの。わらわがこの海底の国マル・オケアノスの王、メーヴェリエルじゃ」
しゃん、と。錫杖で一回床を突き、取り付けられた骨の鈴を鳴らしながら、女王は続ける。
「地上の民よ、そなたの名を告げよ」
その言葉に、アイビスは自分が異邦者である事を思い出した。床に膝をつき胸に手を当て、メーヴェリエルの視線をしっかりと受け止めながら、名乗る。
「はじめまして、メーヴェリエル陛下。私はエレフセリア第二王女、アイビス・シア・フェルメイト・エレフセリアと申します」
敢えてここでは真名を名乗るのが礼儀と思い、中の名前と姓まで口にする。途端、女王は眉根を寄せてくすぐったそうに笑い、「ああ、ああ、構わぬ」と首を横に振った。
「このマル・オケアノスで、地上の民の長ったらしい名は要らぬ。そなたはアイビス。それがわかれば良い」
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