第3章:水底に揺蕩う雪(2-3)

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第3章:水底に揺蕩う雪(2-3)

 そこまで聞いたところで、アイビスの耳は、たしかな違和感を覚えた。いや、今までサシュヴァラルと話していてわずかに胸を横切った違和感が、メーヴェリエルとの会話の間には存在しない、と言った方が良いか。アイビスがその考えに至るのを待っていたかのように、海の女王は、得意気に口角を持ち上げた。 「驚いたかえ? わらわは遙か過去より生きる女王。そこのどら息子と違って、地上の言葉を話すくらい、魚を捕らえるより簡単な事よ」 「母上は手厳しい」  サシュヴァラルが苦笑して肩をすくめる。成程、サシュヴァラルとの会話は人魚の血を介して海底の言葉が翻訳されているが、メーヴェリエルは地上の言葉でアイビスに接してくれているのか。直接アイビスの耳に、訳す必要の無い言語が流れ込んでいるのだ。 「お気遣い、痛み入ります」  海の女王と地上の王女。選ぶ言葉をひとつ間違えれば、分かたれた民がまた争う羽目になりかねない。緊張を胸に抱きながら、アイビスが頭を下げると、メーヴェリエルが愉快そうに笑った。 「面を上げいと言うたじゃろうて」  手厳しそうな見た目に反し、意外と話の通じる相手のようだ。そう判断し、顔を上げれば、しかし女王は、ふっと笑みを消し、蒼い目を細めて、「じゃが」と言を継いだ。 「我が子の目に適った娘とはいえ、歓迎するにはまだ早い。そなたには、この海へ来た人間が、この地に留まる為に必ず通る試練を受けてもらう」 「母上、それは」 「例外は無い」  息子が抗議の声をあげるのを、一睨みでぴしゃりと封殺し、女王はアイビスに視線を戻す。 「この城から北へ向かったところに、数百年前の人間の沈没船がある。そこに我らの祖先が、宝を隠した。それを見て帰った時こそ、そなたを我らの友として歓迎しよう」  青の唇がにい、と持ち上がり、深海の瞳に挑戦的な光が宿って、こちらを見すえる。 「さあ、どうする、アイビス? やるか? それとも尻尾を巻いて地上へ帰ると泣くか?」  一瞬、アイビスの脳裏に、ひとつの憂慮がよぎった。アイビスとサシュヴァラルを海へ逃がす為に、犠牲になったファディム。彼が今どうしているか知る為に、一刻も早く地上へ戻りたい。あの様子では、姉は自分に夫を丁重に扱いはしないだろう。生きていたら助けて、万一の事があれば弔いたい。  だが、そう思ったのは本当にほんの一瞬で、軽く首を横に振る。一人でのこのこ地上へ戻っても、ファディムの安否を確認する前に、「海の民にほだされた妹なぞ要らぬ」とタバサに始末されるのが関の山だ。ならば、この海に仲間として受け入れてもらい、彼らの助力を得て様子をうかがいにゆく方が、ずっと無難で賢いやり方だ。 「やります」  決意してしまえば、迷いなどすぐに吹き飛んだ。女王の目をしっかりと見返し、力強くうなずけば、メーヴェリエルは興味深そうに目をみはった。 「成程、息子が気に入るはずの胆力よ」  女王は愉快そうに肩を揺らしていたが、すっと唇を引き結ぶと、しゃん、とまたひとつ、錫杖を鳴らす。 「では行け、アイビス。この試練には人間は一人で赴いてもらう故、それを重々胸に刻むのじゃぞ」 「かしこまりました」  サシュヴァラルに恥をかかせる訳にはいかない。それ以上に、地上の民の代表として、海の民に対して粗相があってはいけない。その為にも、必ずこの試練を乗り越えてみせよう。  空を飛ぶ時に胸に宿すような、強い決意を抱いて、アイビスは再度頭を下げるのであった。
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