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第3章:水底に揺蕩う雪(3-2)
破笑がひとしきり治まったところで、改めてサシュヴァラルを見つめ、アイビスは気づいた。彼の唇にあった、噛み切り傷が無くなっている。いや、それだけではない。むき出しの胸や、全身にあった、地上で受けた数々の傷が、跡形無く綺麗に消え去っているのだ。
夢でも見ているのかという錯覚にとらわれ、アイビスはぱちくりと目を瞬かせる。その意図に気づいたか、サシュヴァラルは「ああ」と水かきのついた手で、己の逞しい胸板をなぞった。
「人魚の回復力は人間より遙かに高い。あれくらいの傷、どうという事は無かったのさ」
そうは言っても、嵐に巻き込まれた上に、姉タバサに打たれた時に感じた苦痛は、たしかなものであっただろう。彼がアイビスに心配や罪悪感を抱かせまいと、殊更明るく振る舞ってくれているのだと気づき、申し訳無さで胸が一杯になって、うつくむと。
「そう自分を責めないでくれ、アイビス」
ひんやりとした感触が顎に触れ、上向かせる。真率な青の眼差しが、アイビスを射抜く。
「君が落ち込んだ顔をしていると、俺も苦しい。君には、空を飛んでいる時のように、眩しいくらいの笑顔でいて欲しい。俺が勝手にした事で君が君を責めるのは、お門違いだよ」
だから、と。
こつんと額を突き合わせて、サシュヴァラルが至近距離で囁く。
「俺の勝手だけど、ここは君を守らせてくれ。俺のお姫様」
それを聞いて、冷たい水に触れているはずなのに、頬が、耳が、火照ってゆく。ときめきを与えてくれる熱が、胸に訪れる。母親に罰せられる事も覚悟の上で、ここまでまっすぐに自分を想ってくれているひとを、邪険に扱うわけにはいかない。
そしてそれ以上に、彼が自分を大切に想ってくれる事が、とてつもなく嬉しい。カンテラの光以上に強い炎がアイビスの胸の中で燃えている。
応えたい、このひとの情熱に。その結論に至れば、返す言葉はひとつだった。サシュヴァラルの頬を両手で包み込み、淡い笑みを返す。
「頼りにしてるわ、わたしの王子様」
赤と青の視線が絡み合い、どちらからともなく目を閉じて、数瞬、互いの唇の温度を伝え合う。それが離れると、アイビスはサシュヴァラルから両手を離し、彼も腕を解いた。
「ところであなた、武器とかは持っていないの?」
やはり海の民同士でも傷つけ合ってはいけないのだろうか。人魚の心とは反した冷たさを胸に刻むかのように、指で唇に触れながら、アイビスが相手を頭から尾鰭の先まで見つめて疑問を放つ。すると、サシュヴァラルは、子供のように歯を見せて笑い、すっと右手を宙にかざした。
直後、カンテラの明かりよりまばゆい光が辺りに満ちたかと思うと、彼の手の中にそれが集束し、銀色の輝きを持つ三つ叉の矛が生まれていた。
「マル・オケアノスに伝わる『トライデント』だ。王になる者だけが手にする事が出来る」
やや小柄なアイビスの身の丈ほどもある武器を誇らしげにかざすサシュヴァラルの姿は、さながら勇ましい戦士。彼が本当にいずれ海を統べる王者になるのだという印象を、アイビスの胸に刻みつける。
「じゃあ、改めて先へ進もうか」
否応無しに高まる鼓動を必死に抑えていると、トライデントを握っていない左手が差し出される。そこに、カンテラを持っていない右手を重ねて、ふたりはさらなる深みへと静かに泳ぎを進めた。
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