第3章:水底に揺蕩う雪(4-1)

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第3章:水底に揺蕩う雪(4-1)

 海底は静謐の中にあった。空を飛ぶ時に耳朶を叩く、風の音も、波の音も聞こえない。アイビスとサシュヴァラルが水をかく音さえ呑み込まれ、言葉を発する事すら後ろめたくて、沈黙ばかりが流れ去る。 「聞いても良いかな」  あまりの無言に耐えられなくなったか、サシュヴァラルが泳ぎながら口を開いた。 「君は何故、俺と別れた後も空を飛び続けようと思ったんだ」  そういえば、誰にも訊かれた事が無かったし、ただひたすらに翼を作る事に夢中になっている内に、アイビス自身も忘れ去ってしまっていた。心の奥の、鍵をかけた宝箱を軽く叩き、記憶を呼び覚ます。 「あなたに今のわたしの姿を見せたかった、ってのもあるけれど」  色褪せつつある思い出を回顧しながら、アイビスはぽつりと零した。 「母様が、『空を飛びたい』って言ってたから」  母リザは、自室で水槽を眺めている以外の時間は、幼いアイビスを連れてエレフセリアの白い砂浜を歩く事が多かった。娘が裸足になって浅瀬に踏み込み、歓声をあげながら海の碧の中ではしゃぎ回るのとは対照的に、母は青い空に流れる雲を仰ぎ、吹き抜ける風に青い長髪をなびかせながら、にこにこと佇んでいたものだ。 『エレフセリアの空は美しいわ。昼の青、夕方の赤。私と陛下の色。それが混じり合った、夕立前の紫の空も好きね。少しわくわくしちゃう』  汐彩華舞う中、彼女の子供のように無邪気な笑顔は、一際輝いて見えた。 『いつか、鳥になってこの空を飛んでみたい。翼で風を受ける感覚がどんなものか、知ってみたいわ』  生憎、その後母は病がちになり、しばらくしてこの世を去った。母が果たせなかった夢を、追いかけてみたい。それがアイビスを、空への飛行へ駆り立て続けた。 「成程」サシュヴァラルが得心がいったようにうなずく。「君は、お母上の遺志を継いだんだね」 「そんな大層なものじゃあないわよ」  遺志、などという大仰なものではない。ただ、動機となっただけだ。結局のところ、翼をまとって宙を舞いたい、この身で風を受ける気分がどんなものかを知りたい、という、アイビス自身の好奇心がうずいた事の方が大きい。サシュヴァラルの存在や母の言葉を横に追いやって、翼の作成に没頭していたくらいなのだから。  それを告解すると、サシュヴァラルは少し困ったような笑みを浮かべて、首を横に振った。 「それでも良いんだよ。自分達と異なる文化を理解しようとするのは、過去の清算になると、俺は思っている」  そこで一旦言葉を切って、彼は手の中のトライデントに視線を落とす。 「俺もそうだ。地上の民を理解したかった。いや、許せるかどうか、知りたかったんだ」
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