第3章:水底に揺蕩う雪(4-2)

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第3章:水底に揺蕩う雪(4-2)

 許す、とはどういう事だろうか。アイビスが目をしばたたくと、人魚の王子はちらりとこちらを一瞥し、気まずそうに顔をそむける。 「俺の父は、地上の民と海の民の争いを、終わらせようとしていた。地上の民が我々を海に追いやったのは千年も前で、その遺恨をいつまでも引きずるべきではないと、常々おっしゃっていた」  王婿(おうせい)である彼は時折地上に上がり、エレフセリアとは別の海辺の国と、国交を築こうとしていた。だが、何かの行き違いがあったのか。それともその国の人間が、海の宝にでも目がくらんだのか。  ある嵐の夜の後、血錆のついた、メーヴェリエルと揃いの首飾りだけが、海底に静かに降ってきたという。 「当然と言うべきだろう、母上は怒り狂った。海竜となって津波を起こし、その国を滅ぼした」  アイビスはひゅっと息を呑んだ。たしかに幼い頃、近隣の小国がひとつ、大津波によって王族や多くの民を失い、国としての機能を停止した知らせが、エレフセリアにもたらされた事があった。それが自然災害ではなく、人間の欲望の結果であるという告白を、自分は今聞いている。  姉タバサを放置していたら、サシュヴァラルは殺され、エレフセリアもまたその国と同じ運命を辿るところだったろう。自国が最大の危機にあった事に、今更心臓が逸る。しかし、サシュヴァラルを助けた事はやはり間違いではなかったのだという安堵感が、後から訪れる。  唇を噛み締め、サシュヴァラルの言葉を胸の中で反芻する。そして、握った手に力を込めて。 「出来るわ」  自信に満ちた言葉を発する事で、サシュヴァラルをはっとこちらに振り向かせた。 「地上の民と海の民がわかり合うのを、諦めてはいけない。こうして、あなたとわたしが手を取り合えるのだもの」  人魚の王子が蒼の目をみはり、それから、「そうだな」と相好を崩す。 「君となら、本当に出来そうだ。そんな君だから、俺は」  ぽそり、と、アイビスには聞き取れない何かをつぶやき、それきり彼は口をつぐんで、また沈黙が落ちる。だが、それは先程までの、会話を探る気まずさではなく、互いを少しだけ理解する事が出来たゆえの安心感が胸に広がるもので、気のせいか、周囲の水も温かく変化したように感じた。  さらに深淵へ。地上の光はほとんど届かなくなってしまったのに、あちこちで色とりどりの光を放つ、エレフセリアの海辺では見られない生物がいて、暗さによる不安を感じずに済んでいる。 「あった」  サシュヴァラルが唐突に口を開いて、トライデントで先を示す。彼の瞳はこの海底の全ても見通しているのだろうか。軽い疑問を抱きながらカンテラをそちらに向ければ、灘雪によって白く染まった、元は豪奢な色をしていただろう人工物が視界に広がった。これが沈没船か。  水底で永い時を経た船体は、ところどころが崩れ、窓硝子も割れて無くなり、海の生物が自由に行き来している。割れた窓から侵入を試みる手も考えたが、アイビス達の身体は魚より大きい。通り損なって大怪我をする可能性を鑑みて、過去に来た人間が通った道が無いか、探してみる事にした。
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