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第3章:水底に揺蕩う雪(4-3)
深海魚の頭骨のカンテラをかざしながら、船の周りをぐるりと一周してみる。すると、船体の一部に、複数人が通れそうな大穴が空いているのを見つけた。これが、かつての探索者が拓いた道なのか、それとも、この船が沈没する羽目になった原因なのか。アイビス達には知る由も無いが、中へ進む場所として、ありがたく使わせてもらう事にした。
大穴をくぐれば、辺りは更に暗くなる。カンテラの明かりだけが頼りだ。進入した場所はどうやら厨房だったらしく、潮で錆びきった缶詰やフォーク、割れていなければエレフセリアでは相当な高値がつく、異大陸の模様皿の欠片が漂っている。それらで手足や顔を切らないように気をつけながら扉を開ければ、ぼろぼろに腐った服の残骸をまとった白骨死体が急に目の前に現れた。思わず目をみはって、喉まで出かかった悲鳴を必死に呑み込む。
「遙か遠い地上の国にあるという、『お化け屋敷』みたいだな、ここは」
サシュヴァラルが冗談めかして抑えた笑い声をあげる。こんな時に不謹慎な、とたしなめようとしたが、青白い光に照らし出される彼の横顔は真剣そのものだ。アイビスの緊張を少しでもほぐそうと気を遣ってくれていたのだとわかると、苛立ちは引っ込み、代わりに感謝の念が湧いてくる。
礼を言おうとしたその時、不意に近づいてくる気配を感じ取って、アイビスは咄嗟にサシュヴァラルの手を引き、折れた柱の陰に身を隠した。
崩れかけた廊下の向こうからやってくるのは、真っ白い鮫のような生物だった。目と思しき器官は無く、鰓のあたりまで裂けた大きな口からは鋭い鋸のような牙がのぞき、頭から生えた触覚が時折緑に光って、ゆらゆらと揺れている。
光を察知するかはわからない。だが、これに捕まったらあの牙の餌食になりそうだ。かといって、本当に害があるかどうか判断出来ない内にこちらから手を出しては、メーヴェリエル女王との約定を違える事になる。今にも飛び出してトライデントを突き立てそうなサシュヴァラルの腕を引いて留め、カンテラの光も消し、じっと息を潜める。
ちらつく緑の光だけが、ゆっくりと、こちらに近づいてくる。呼吸でばれないか、速まっている鼓動が伝わりはしないか。身を強張らせすぎたあまりに耳鳴りまでする。これが地上だったら背中に大汗をかいているだろう。
アイビス達の警戒をよそに、鮫もどきはゆったりとした泳ぎのまま、柱の脇を通り過ぎ、そして、廊下の向こうへと姿を消した。
深い溜息が水中に溶ける。極度の緊張が解けた途端に脱力したアイビスの腰を、サシュヴァラルがすかさず抱き留めて、その場に崩れ落ちるのを防いでくれた。
「ありがとう」
「それはこちらの台詞だよ」
カンテラをつけて礼を述べれば、青年は決まり悪そうに眉を垂れて苦笑する。
「邪魔ならば何でも倒せば良いと思っていた俺を、君は止めてくれた。君は正しい判断をしたんだ。ありがとう」
その途端、アイビスの胸にも嬉しさが溢れる。地上で、己の判断を正しいと言ってくれる人は少なかった。父は娘の言葉を笑ってすげなく流したし、受け止めてくれる母は早くに逝った。ファディムも表だってはアイビスを支持出来なかった。姉とジャウマに至っては論外だ。サシュヴァラルの言葉は、真正面から褒められる事に慣れていない少女の心を打つのに、十二分な威力を持っていたのだ。
「と、とにかく」
動揺している事を悟られないように、再び光を灯したカンテラで廊下の奥を照らす。
「先へ進みましょう」
「ああ。はぐれないように気をつけて進もう」
こちらの心中を知ってか知らずか、サシュヴァラルはトライデントを握り直して、アイビスの手も握り直す。これが地上だったら、掌にびっしり汗をかいていたに違い無い。海の中で良かった、とアイビスは相手に悟られない程度に吐息をついた。
その後、船内に危険そうな生物は現れなかった。かつての乗員だったろう死体が漂い、深海の民がちらほらと行き来する以外、静寂に包まれた中を、生者ふたりが、いにしえの死者の眠りを乱さないように静かに泳ぐ。
やがて、狭苦しかった廊下が終わりを告げ、外れかけた扉を押し開くと、人間数十人は収まりそうな広間に出た。エレフセリアには無い文化の、ダンスホールだろう。
道を辿ってきた限り、ここが最奥のようだ。メーヴェリエルの言う宝はどこにあるのか。カンテラで見える範囲をきょろきょろと見回していると。
「危ない!」
サシュヴァラルが突然声を荒げて、アイビスの腕を強く引いた。よろめくように身を引いた直後、何か鋭いものが、最善までアイビスのいた場所を薙いでゆき、ぶわりと強い水流に巻き込まれそうになる。
一体何なのか。カンテラをそちらに向けるより先に、赤、青、緑、紫、白といった光が放たれ、鋭い何かの主が、形を表す。それは、エレフセリアの伝承に語られる、海に棲みながらも長い体毛を持つ、蛇に手足が生えたような、海竜の名を思い起こさせて。
「レヴィアタン!」
サシュヴァラルが、アイビスが思い至った怪物と同じ名を叫んだ。
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