第3章:水底に揺蕩う雪(5-1)

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第3章:水底に揺蕩う雪(5-1)

「下がれ、アイビス!」  トライデントを腰だめに構えたサシュヴァラルが、アイビスの前に泳ぎ出て、レヴィアタンと向かい合う。 「君では手に負えない相手だ!」  たしかに、エレフセリアの伝説に語られるレヴィアタンは、その一かきで大波を起こし、牙は鯨を噛み殺して、爪は金剛石(ダイヤモンド)すら砕くという。そこまで巨大ではないが、サシュヴァラルの十倍ほどはありそうな体躯はダンスホールを一杯に満たし、自身が放つ光に照らされる瞳は金色にぎらぎらと輝いている。ぞろりと牙ののぞいた口から咆哮を放ち、水をびりびりと震わせる。サシュヴァラルでも手に負えない、話の通じない相手である事は一目瞭然だ。  どうすれば良いのか。アイビスは周囲を見回して、レヴィアタンの背後、放つ光にうっすらと照らされる、金属の小箱をみとめた。 「サシュ、あれ!」  アイビスが指差す先を見て、サシュヴァラルも目をみはり、それから、苛立たしげに舌打ちをした。これまでの彼の態度からは想像も出来なかったが、この不遇な巡り合わせに不満を表したくなる気持ちは、痛いほどわかる。アイビスも文句を言いたいくらいだ。  小箱には錠がかかって、いかにも大事なものです、とばかりに存在を主張している。ここまでの道程から考えても、この沈没船に納められた宝はその中にあって、このレヴィアタンが、宝の守り主という訳だ。  メーヴェリエル女王はかつて、夫を奪った地上の国を滅ぼした。その怒りはいまだ治まらず、人間を憎んでいても然りだろう。いわんや、地上の民であるアイビスをも。試練と告げて、人間をこのレヴィアタンの餌食にしてきた事も、充分に考えられる。  しかし、そこまで考えて、いや違う、とアイビスは首を横に振った。どんな国でも、暴虐を働く愚かな王に、民はついてこない。マル・オケアノスの民に、メーヴェリエルを極度に恐れたり、疎んじたりする様子は、少なくとも謁見した時の兵達の態度からは見られなかった。彼女は決して、姉タバサのような暗愚な為政者ではない。  では、あるのだ。この海竜をかわして、宝を手に入れる方法が。そしてそれは、代々の王と、この船を攻略した探索者だけが知る手段なのだ。  ならば、サシュヴァラルが海竜と向かい合っている間に、答えに至らなくてはならない。それを、空を飛ぶ時風を読むように、的確に捉えねばならない。すいすいと泳ぎ回りながら鋭い爪をかわし、威嚇にトライデントを振るう人魚の王子の姿を横目に追いながら、アイビスは必死に考えを巡らせる。しかし、焦りは混迷を生み、混迷は更なる焦燥を煽る。頭に血がのぼり、血流が鼓膜を強く叩く鈍い音が、煩わしく聞こえた。  サシュヴァラルの苦悶の声が混じったのは、その時だった。レヴィアタンの尾の一振りが人魚をダンスホールの壁際まで弾き飛ばし、永の腐敗で脆くなっていた壁にめり込んだ彼が、苦しそうに顔を歪める。人魚の回復力は驚異的といえど、しばらくは動けないだろう。あの巨体の一撃を受けたのだ、骨が折れていてもおかしくはない。  どうすればいい。その考えだけが頭の中でぐるぐると巡り、アイビスは自然と、困った時に頼りにした人へ願いを託していた。 (母様)  母ならどうしただろうか。この状況に、自分を愛しく想ってくれるひとの危機に、どう立ち向かっただろうか。ありもしない返答を求めるように目をつむり、両手を組んだ時。 『大丈夫よ、アイビス』  子供の頃、そう微笑んで頬を撫でてくれた母の手の感触がしたかと思うと、カンテラの青白い光ではない淡い輝きが目の裏に滑り込んできたので、はっと目蓋を開く。そしてその目を更に見開いた。
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