第3章:水底に揺蕩う雪(5-2)

1/1

7人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ

第3章:水底に揺蕩う雪(5-2)

 組んだ右手の薬指に通していた、母の形見の蛋白石が、光を放っている。はじめは淡い白に、次第に強い虹色に。そして七色の光輝がダンスホール全体を明るく照らし出した。水中に浮かぶ椅子やテーブル、談笑を楽しんでいた人々が使っていたのだろう、割れてしまったワイングラスが視界に映る。白い体毛に覆われたレヴィアタンの姿も露わになる。  だが、驚きはそこで終わらなかった。蛋白石の輝きを浴びた海竜は、突然戦意を失い、喉の奥で小さく唸り声をあげたかと思うと、アイビスの前に身を伏せて頭を低くし、大人しくなったのである。まるで、アイビスが主であるかとばかりに。 「どういう事だ?」  信じがたい、という色を込めたサシュヴァラルの声が聞こえたので、傍らを振り仰ぐ。いつの間に隣に来ていたか、彼もまた、吃驚(きっきょう)を隠せない様子で、アイビスの手元を見つめている。 「アイビス、君はその指輪の使い方を知っていたのか」  問いかけに、ふるふると首を横に振る。これはただの母親の形見だと思っていた。出所も知らない。母が常に身につけていて、『リザは私からの指輪をはめてくれない』と、父が冗談交じりに嘘泣きをしていたのも、鮮明に覚えている。海竜を鎮める効果があるなど、夢にも思っていなかった。  しばらくの間、ふたりは指輪とレヴィアタンを交互に見やって言葉を失っていたのだが、「とにかく」と、先に気を取り直したのは、アイビスだった。 「宝の正体を確かめないといけないわ」  虹色の明かりの下、床を蹴って水をかき、微動だにしない海竜を横目に見ながら宝箱のもとへ泳ぎ着くと、錠にタツノオトシゴの鍵を差し込む。単純な造りの錠前は、自然の鍵を素直に受け入れ、宝箱の蓋は簡単に開いた。  そこからふわりと浮いてきたものをつかみとめて、まじまじと眺め、アイビスはまたも言葉を失う。サシュヴァラルも横からアイビスの手元を覗き込み、「これは……」と先を継ぐべき台詞を見失ったようだった。  それは、一枚の写真。過去の思い出を焼き付けて残すカメラ技術は、エレフセリアにはほとんど普及していないが、外の大陸には、数百年以上前でも既に一般的な文化として根付いていた地がある。この沈没船は、そういう場所から来たのだろう。  永い間水にさらされ、色褪せてもわかる、日焼けした背の高い男性と、美しく若い女性と、二人の手を握っている幼女。三人ともが、幸せの時を分かち合い、満面の笑みを浮かべている。恐らく、この中の誰かが、あるいは全員が、この船に乗っていたのだろう。それを思うと、つんと鼻の奥が突かれたように痛み、目の奥が熱くなった。 「これを持って帰れば良いのか」  サシュヴァラルが促したが、アイビスは首を横に振って(いな)み、写真を宝箱に仕舞ってそっと蓋を閉じると、元通りに錠をかけた。 「女王陛下は、『見て帰った時』とおっしゃったわ」  そう、メーヴェリエルは宝の正体を知っていた。だから『持ち帰れ』ではなく、『見て帰れ』と命じたのだ。これは次にこの船を訪れた人間の為に、ずっとここに残しておくべき物だ。今までの探索者もそうしてきたのだろうし、この先も、そうして受け継がれてゆくのだろう。 「行きましょう」  涙など水に溶けるのはわかっているのに、目尻にわだかまっている気がして、そっと指で拭い、サシュヴァラルの手を取る。彼もアイビスの意図を全て受け取ってくれたのか、深くうなずき、しっかりとこちらの手を握り返してくれる。  母の形見の指輪の光明は消えて久しい。しかしレヴィアタンはいまだ床に伏せたまま、金色の瞳だけをじっとアイビス達に向けて、ふたりがダンスホールを出てゆくまで、ただただ静かに見送っているばかりであった。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加