第4章:人魚姫は泡に還るか(1-3)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(1-3)

「海の恵みに感謝を!」 『海の恵みに感謝を!』  グラスを掲げて口上を述べるメーヴェリエル女王に応えて、その場にいる誰もがグラスを高々とかざし、復唱する。見よう見まねでアイビスもグラスを少しだけ高く持ち上げ、グラスに取り付けられた棒状の吸い口に唇をつけた。途端、ほんのり甘く、それでいてのどごし爽やかな飲料が、口内に流れ込んでくる。素材に何を使ったのかわからない飲み物ではあったが、これだけの人数分球形グラスが用意されている事と、人魚達がきゃっきゃと談笑しながら飲み続けている事から、海底では一般的な飲み物として普及しているのだろう。  続いて、料理に手をつける。流石にナイフやフォークの習慣は無いようなので、手づかみで食する。地上と異なり、常に海水の塩味が利いている刺身は、舌の上でふわりと溶ける。生まれて初めて口にするフジツボは、食べられないのではないかという予想とは裏腹に、こりこりと歯応え良く、蝦蛄(シャコ)でも食べているような感覚で食する事が出来た。 「驚いてる、驚いてる」  珍味に目を白黒させるアイビスを見て、シャオヤンテが愉快そうに笑いを洩らし、「これも美味いよ」と、豪快に半分に割った海老を示す。海老ならエレフセリアでも生で食していたので、怖じ気づかずに食べられそうだ。手に持って、ちゅるりと身を吸うと、柔らかい肉の感触が甘く舌に触れ、喉を通り過ぎていった。 「美味しい」 「何だよ、こっちもいい反応してくれると思ったのに」  素直に感想を述べると、目論み通りにならなかった事に、シャオヤンテがぷうと頬を膨らませる。 「地上の人間は、どれを食べて、何を食べてない訳?」 「そうアイビスをからかうな、シャオヤンテ」  つまらなそうに洩らす妹を、サシュヴァラルが横からたしなめた。 「地上の食べ物も、それなりに美味かったぞ」  アイビスがサシュヴァラルに与えた白パンの事を言っているのだろう。あれだけで地上の食事の全てを解釈されても困りものだが、今はそれを説明すべき時ではないと判断し、アイビスは人魚達に笑顔を見せる。 「海の食べ物も、とても美味しいわ。エレフセリアでは食べられない味がするもの」  その答えに、サシュヴァラルは満足げに微笑み、シャオヤンテは悪戯心の芽を摘まれてしまったのか、「ま、まあ、そこがわかればいいんだよ」と、肩までの青い髪を指先でくるくるともてあそんだ。  食事が一段落すると、歓談に入る。時間の経過が警戒心を解いたのだろう、アイビスの周りには広間に入ってきた時以上に人魚達が詰めかけ、こぞって地上の話を聞きたがった。  真夏には熱く、真冬でも温かい風の吹くエレフセリア。空から照りつける太陽。浜辺を舞う汐彩華。夜に踊る汐火垂。時折嵐が訪れる事もあるが、それを逞しく乗り越えた農作物は、甘くしっかりとした実をつける。海とは違う青を持つ空の下、空気を裂いて滑空すれば、翼持つ鳥の気分を味わう事が出来る。地面に足を捕らわれている時とは違う、海の中を自由に泳ぐ感覚に似ている。民の気性は穏やかで明るく、王族を慕ってくれている  そこまで話したところで、アイビスはふっと口を閉ざして黙り込んでしまった。今まで忘れかけていた事。それが、泥水が湧き出るかのように、胸の中を満たしてゆく。 「皆、そこまでだ。慣れない海に、アイビスも疲れている」  少女の表情の翳りに気づいたのだろう。サシュヴァラルが人魚達を遠ざけ、アイビスの肩に手を回した。息子の意図を酌み取って、メーヴェリエルも手を鳴らす。 「さあ、宴はお開きじゃ。各々片付けよ」  女王の一声の下、人魚達は三々五々散ってゆく。ぼんやりとその様子を眺めていると。 「アイビス、行こう」  サシュヴァラルが、肩を引き寄せて促した。 「ひとが多くてあてられただろう。散歩をして、少し気分を変えた方がいい」 「ええ……」  たしかに、何だか足元がふわふわしておぼつかない。アイビスはゆるゆるとうなずくと、サシュヴァラルに引かれるまま、広間を出ていった。
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