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第4章:人魚姫は泡に還るか(2-2)
柱の陰から飛び出してきた何者かが、アイビスが振り向くよりも速く、剣呑な光を振りかざす。どす、と鈍い音を立てて、熱い衝撃が背中に訪れ、遅れて未知の痛みが襲いかかってきた。
「アイビス!?」
耳鳴りがして、サシュヴァラルが愕然とした表情で呼びかけるのが、遠く聞こえる。背中に刺さった何かが引き抜かれる気配がしたので、何とかこうべを巡らせれば、そこにいるのは、広間で悪口を垂れて出ていった女人魚だ。エスタリカ、と言ったか。
「サシュヴァラルは私のものよ! 盗らないでよ! 海の民でもないのに海猫の名前を持つ泥棒じみてるくせに!」
アイビスの血がじんわりと水に溶けてゆく。魚の骨を削り出した短剣を握り締めたまま、エスタリカは銀色の瞳をぎらぎらと狂気に輝かせ、怒りの余りに笑みさえ浮かべながら、再度短剣を突き立てようとする。が、サシュヴァラルの行動の方が早かった。憤怒を顔に満たすと、アイビスから一旦腕を解き、エスタリカの細い腕をねじり上げて背に回す。
「誰か! 誰か来てくれ! アイビスが!」
エスタリカをベンチに押しつけて、サシュヴァラルが声を張り上げると、女の形相は更に歪んだ。
「何よ! いつもいつもその女の事ばかり! 私はこんなにあなたの事を考えてあげているのに!?」
「黙れ」
狂ったように呪詛を吐く嫉妬の塊を、サシュヴァラルはひどく冷たい表情でぴしゃりと黙り込ませる。
「本当に俺の事を考えているなら、こんな事はしない。お前は、お前自身の事しか考えていなかったんだ。お前は、海の民失格だ」
自分が好意を寄せていた――と思い込んでいた――相手に、全てを否定された狂える女は、顔色を失い、ふるふると唇を震わせる。その間に、サシュヴァラルの声を聞きつけたか、シャオヤンテが数人の兵を引きつれて、急いた様子で泳いできた。
「お前への沙汰は、母上が下す」
最早反論する気力も失せたのだろう、ぐったりと項垂れるエスタリカを、サシュヴァラルは冷たく一瞥すると兵に引き渡し、アイビスの元へと取って返してきた。
全身に力が入らない。自分の周りが、背中の傷から流れる血と、口から吐き出した血で、赤く染まってゆく。大丈夫、とサシュヴァラルに返そうとしても、頭がぼうっとし、口の中では舌が膨れ上がっているようで、言葉は何も出てこない。
「アイビス、アイビス!」
サシュヴァラルが自分を抱き締めて、必死に呼びかけてゆく感覚も遠くなる。深淵の闇がアイビスを包み込んで、彼女はそのまま意識を失った。
エレフセリアは夜の帳の中にあった。王宮の周りには篝火が焚かれ、建物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
その一角、王の寝室で、エレフセリア第一王女タバサは、父お気に入りの籐のソファにかけている。背丈の低いテーブルを挟んだ向かいには、ジャウマ将軍が座って、お互いまるで自室のようにくつろいで酒を酌み交わしていた。
「いや、これは美味い」
鷲鼻の下の、金の髭を満足げに動かしながら、将軍は、透明なグラスに血のように注がれた赤い葡萄酒をなめる。
「そりゃそうよ。十年ものをわざわざ大陸中央から取り寄せたんですから」
「祝い酒という訳ですな」
タバサが同じ酒を含みながら鼻を鳴らすと、ジャウマはグラスから口を離し、その口をにたりと歪める。
「全ては、タバサ様のご計画通りに進んでおります」
妹である第二王女アイビスは、人魚にさらわれた。手引きをした夫ファディムは厳罰に処せられ、追放の身となって、明日、海に流される。それをディケオスニに報告すれば、愚かな王子を婿に寄越した慰謝料と、代わりの王子がもたらされるだろう。どうせなら、一度かの国を訪れた時に見た、第三王子の顔がかなりの好みだったから、要求してみようか。タバサはほくそ笑み、葡萄酒の入ったグラスに己の顔を映し出して、口角を持ち上げる。
「これで、エレフセリアはあたしのもの」
満足げに酒をあおり、傲慢な第一王女はおもむろに、寝台に伏せる父の方を向く。
「何にももらえなかったんだもの、それくらいは、もらっても良いわよねえ、お父様?」
蛇が這うかのごとくねっとりとした呼びかけに、しかし、ストラウス王は応えない。ああ、とか、うう、とか呻くばかりで、言葉を成さない。その目は虚空を見つめ、宙に向かって突き出された枯れ枝のような腕には、毒を受けた人間特有の斑点がびっしりと浮かんでいる。
「恐ろしい方だ」
ジャウマがにやにやと笑みを崩さないまま呟いて、グラスを仰いだ。
「敵に回したくないな」
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