第4章:人魚姫は泡に還るか(3-1)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(3-1)

 目蓋がひどく重い。全身に何かがのしかかっているような倦怠感を覚えながらもゆっくりと目を開くと、不安たっぷりのサシュヴァラルの顔がそこにあった。ここがどこだか一瞬わからなくてぼうっとし、やがて海底の城の、どこかの部屋の寝台の上のようだ、と認識する。傾けるのも億劫なこうべを巡らせると、彼の後ろから心配そうに見つめているシャオヤンテの姿も見えた。 「アイビス」  サシュヴァラルが名を呼ぶ声がわんわんと頭に反響する。身体が火照っているのを感じるが、すぐに寒気を覚えてがたがた震える。 「大丈夫か」  問われ、大丈夫、と返そうとした声は喉で絡まって、口の周りの水に流れを生み出すだけになった。  何があったのか、思い出そうとする。城の庭でサシュヴァラルと語り合っていて、エスタリカという人魚に、刺された。死ぬのではないかと思った恐怖はまだ心臓のあたりに重くわだかまっていて、そう簡単には消えてくれそうに無い。  だが、実際相当量の血が流れたはずなのに、自分はまだ生きている。背中にひきつるような痛みも熱も無い。 「アイビスも、人魚の血を引いているから、回復力は高かったんだ」  助かって良かった、とサシュヴァラルが吐息をつく。そう、自分は元人魚の母リザの血を引いている。人魚の驚異的な治癒の力は、サシュヴァラルを見て知っていた。それが自分にも引き継がれていた為に、傷が塞がったのか。だが、サシュヴァラルの複雑な感情を孕んだような深海色の瞳は、痛々しそうにアイビスを見つめている。いや、正確には、アイビスの、下半身を、か。  一体どうしたのだろう。寝台に横たわったまま視線を下ろす事が出来なかったので、何とか寝返りを打って足を視界に収まるように動かし、アイビスは愕然とした。  アイビスの小麦色の細い足を、朱い鱗がびっしりと覆っていた。枕元に置いた深海魚の頭骨のカンテラの青白い光を受けて尚、鮮やかな朱に輝いている。 「人間は、海に順応すると人魚になる」  自らの身に起こった異変に瞠目しているアイビスに、サシュヴァラルが語りかける。 「アイビスは、叔母上の血を引いているから、それが早かったんだろう」  そこで彼は一旦言葉を切り、だが、と続ける。 「早すぎる順応は、君の身体に大きな負担をかけたんだ」  成程、この異様な身体のだるさは、その負担か。アイビスの熱に浮かされた脳は、どこかの部分でやたら冷静に納得した。人でなきものに変わる恐怖よりも、母やサシュヴァラルと同じ存在になれるのか、という安堵感の方が先に立つ。  しかし、それにしてはサシュヴァラルの痛々しそうな表情は、あまりにも深刻だ。そんなに自分事のように心配しなくても、人魚になれば、今まで以上により自由に、海底を共に泳げるのだ。彼が悲しむ必要など、どこにも無いのに。  それを告げようとするより先に、口ごもる兄を見かねたか、シャオヤンテが近づいてきて、「アイビス」と、こちらも悲痛さを隠さない面持ちで言った。 「順応が早すぎるのも、問題なんだ。身体が変化に追いつけなくて、人魚になれなかった人間は、泡となって消えてしまう」  ひゅっ、と。  アイビスは息を呑み込んだ。  幼い日の夜に、母から聞いた御伽話がある。海に住む人魚の姫が、嵐から助けた地上の王子に恋をした。しかし、声と引き替えに人間の足を得て陸に上がったにも関わらず、王子は別の娘と愛し合い、失恋した姫は泡となって海に還ったと。  子供心に、ひどい話だと思った。想いを遂げられなかった人魚の姫が可哀想で、他の娘に余所見をした王子も、姫から王子を盗った娘も、皆一緒に泡になってしまえばいいのに、とわんわん泣い。すっかり眠るどころではなくなり、『アイビスは感受性が豊かすぎる子ね』と母が困り顔で頭を撫でてくれた事も、覚えている。  それと似たような事が、今、自分の身に起こりつつあるというのか。人になろうとしてなれなかった人魚の姫のように、人魚になれなかった人間の王女として、消えるかもしれない危険性が、今、自分の身に迫りつつあるのだ。唖然と宙を見つめた時。 「消えないでくれ」  ひんやりとした感覚が、アイビスの手を、強く、強く、握り締める。サシュヴァラルの手だと気づいたのは、彼が血を吐くような声を発したからであった。 「やっと手が届いた輝きなんだ、俺を置いていかないでくれ」  ああ、と熱を帯びたままの吐息が零れる。  夢のようだった刹那の少年少女期を共に過ごしたひとが、こんなにも熱情を向けてくれる。許婚のジャウマが決して見せてくれなかった追慕を注いでくれる。  死にたくない。  その想いが、強く、強くアイビスの胸の鐘を打って響かせる。このひとの傍にいたい。笑ってこれからの生を共に歩みたい。泡となって儚くなりたくはない。  サシュヴァラルに握られていないほうの手で目を覆えば、海水とは異なる塩辛い水分が、流れていった気がした。
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