第4章:人魚姫は泡に還るか(3-2)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(3-2)

「何で!? 何でよ!?」  ぎらぎら照りつける太陽の下、金切り声と、じゃらり、と重たい鎖の音がする。  メーヴェリエル女王の姪を殺しかけた罪で捕らえられたエスタリカは、女王の裁きを受け、鮫が餌場とする海上の岩場に繋がれていた。直接首を落とされる訳ではないが、鮫に食われるも、岩場で干上がるも、どの道いつかは命果てるしか無い、重い罰であった。 「私は海の民として正しい事をした! 侵略者の誘惑からサシュヴァラルを守ろうとしただけじゃない! それの何が悪いの!?」  あくまで自分の行為を正当化しようと喚き散らす、半ば乱心した女の叫びは暑気に溶け、聞き届ける者はいない。いや、たとえいたとして、嫉妬に狂った人魚の戯言と、鼻先で笑い飛ばすだろう。  自慢だった翡翠の鱗は、すっかり乾いてぱりぱり剥がれ始めている。薄緑の髪を振り乱し、銀色の瞳から正気の光を失ったエスタリカが、更なる罵声を放とうとした時、海原を揺蕩ってくる影に、彼女の目はようやく現実を見つめる事が出来た。  それは小舟だった。櫂がついている様子は見えず、波の赴くままに流されてきたものと思える。見る間に距離を詰めてくるそれに、誰かが乗っている気配を感じて、エスタリカは腰に巻かれた鎖を引きずりながら、岩場に打ち寄せられる小舟へと近づいていった。  船底に丸まっていたのは、人間の男だった。手酷い拷問を受けたのか、全身痣だらけで、茶色い巻き毛のあちこちが、血で固まっている。エスタリカは男を小舟から岩場へ引き上げると、 「ねえ」  つんつんと頬をつつき、甘ったるく、水底へ(いざな)うような声音で呼びかけた。 「助けてよ。この鎖を外して。そうしたら、私もあなたを助けてあげるから。私の血で、あなたもすぐに治るから」  両の(かいな)で包み込むように抱き締めれば、男はゆるゆると目蓋を開く。黒の瞳は彷徨うようにきょろきょろと動き、きちんとエスタリカを映しているのか、わからない。 「ねえ、私の言う事、聞こえてる?」  苛立ちを覚えて再度呼びかけると、男は血泡の浮いた唇を震わせ、かろうじて聞き取れる声量で、言葉を紡ぎ出した。曰く。 「アイビス……」  それは憎き仇敵の名。何故その名を、この人間の男が口にするのか。  驚愕にとらわれた直後、エスタリカの自由を奪っていた鎖の重みが消えた。いや、自慢の翡翠の鱗持つ下半身が、ごっそりと消えていたのだ。  岩場に血の絵画が広がり、悲鳴をあげる余裕すら無い激痛が、脳髄に響く。 「何で……何で……何で、私ばっかりこんな……!?」  遠ざかる意識の中、恨み言を洩らす彼女が最期に見た光景は、急速に暗くなって風が荒れ狂い泣き始める空。そして、人魚の下半身を食い千切り、鋭い牙で噛み砕きながら、爛れた皮膚持つ歪な生物と化してゆく、助けようとしたはずの人間の男の姿であった。
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