第4章:人魚姫は泡に還るか(4-2)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(4-2)

 アイビスの覚悟を受け取ってくれたのだろう、サシュヴァラルが「行こう」と左手を差し出す。拳を解いて右手を載せると、今までにない強い力で握り返される。彼もまた、アイビスの存在が儚くならないように、こうして感触で確かめているに違い無い。こちらからも力を込める。  サシュヴァラルの右手が輝きを放ち、銀色のトライデントが出現する。己の武器を一回軽く振るった彼は、妹を振り返り、「シャオヤンテは、母上の所へ行け」と、強く言い含めた。 「兄貴」 「俺に万一の事があった場合、母上の跡を継ぐのはお前だ。お前まで、海から失われてはならない」  どおん、と再び城が揺れる。シャオヤンテは、憮然とした表情で兄を見すえていたが、決して愚かな少女ではない。 「せいぜいアイビスを守り切るんだよ。そんな言葉、遺言になんかさせないからね!」  ぎん、と鋭い眼光でサシュヴァラルを睨みつけると、素早く身を翻して、兵達と共に部屋を泳ぎ出てゆく。  それを見送ったサシュヴァラルは、アイビスの手を引いて、泳ぎ出す。火照りきった身体はふらふらで、視界もぐるぐる回っているようだが、そんな事で彼の足手まといになりたくはない。アイビスは意を決し、両足で水を蹴れば、以前よりずっと軽く水中を泳げるようになった気がした。  アイビス、アイビス、と。  自分を呼ぶファディムの声は海底に響く。人ならざるものへ変貌する恐怖よりも、彼を案ずる気持ちの方が、今のアイビスの心を占めていた。  震動の続く海底の城に、灘雪の白をかき消すほどの赤が染み出していた。あちこちで、銛を持つ海底の人魚達が、剣を振るう地上の人間達と切り結んでいる。どちらかがどちらかを斬り倒した血煙が、水中へと立ち上っているのである。足のある人間達が身につけた鎧は間違い無く、十数年毎日目にしていた、エレフセリアの兵のものだ。 『アイビス、アイビス』  その戦いを横目に、よりはっきりとしてゆく自分を呼ぶ声が耳朶を振るわせるのを感じながら、アイビスはサシュヴァラルに手を引かれて泳ぐ。かつて相争って地上と海に分かたれたひとびとが、再びこうして武器を交えている。永の時を経ても変わる事の無かった争いの虚しさに胸を締めつけられる。が、振り返ろうとしたところで、「アイビス」とサシュヴァラルにより強い力で手を引かれた。 「この場の戦いを止めたい君の気持ちもわかるが、この乱戦の中に飛び込んでいったところで、君が王女と気づかれずに斬り捨てられる。ならば、首魁を見つけ出して討つべきだ」  言われて、きゅっと唇を噛み締める。そう、これだけ戦闘に昂ぶった兵達の前へ飛び出しても、エレフセリアの兵はアイビスをアイビスと認識しないのが関の山だ。もしかしたら、尊大な姉タバサから、自分を見つけ次第殺せ、という命令を下されていてもおかしくはない。  それに、段々と近くなるファディムの声が気になる。あまりにも苦しそうで、早く彼をその苦痛から解放せねば、という思いが、満身創痍のアイビスをかろうじて突き動かしていた。  やがて城の入口に辿り着いた時、アイビスとサシュヴァラルは、信じがたいものを目の当たりにして、しばし言葉を失い、その場に揺蕩ってしまった。  そこにいたのは、伝承の『竜』に似た、しかし『竜』と呼ぶにはレヴィアタンとは別の意味でかけ離れている、非常に醜い生物であった。背丈はアイビスの五、六倍ほどだろうか。枯葉色の爛れた皮膚に覆われた顔に目と思しき器官は見当たらず、黒い嘴を持つ裂けた口には刃物のごとき牙がぞろり。あちこち穴の空いた背鰭胸鰭は鬱陶しそうに揺れて水流を巻き起こす。そして、烏賊のような足が生えた半透明な上半身と、深海鮫を思わせる長い下半身をめちゃくちゃにばたつかせて、何とか攻撃を加えようとする人魚達をはね飛ばし、何度も城に体当たりを繰り返して、建物の柱にひびを入れていた。
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