第4章:人魚姫は泡に還るか(4-3)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(4-3)

『アイビス、アイビス、アイビス!』  その口からひとの言葉が放たれているとは到底思えないが、自分を呼ぶ声は、確かにこの竜のなりそこないが発しているとしか思えない。 「――ファディム!?」  アイビスが義兄の名を呼ぶと、なりそこないは一瞬動きを止め、やけに緩慢な動きで、アイビスに向き直る。脚を朱い鱗に覆われた自分の姿は、彼に見えているのだろうか。いやそもそも、彼はアイビスをアイビスと認めてくれているのだろうか。 「ファディム!」  身を乗り出して再度呼びかける。なりそこないの生物は、化膿した喉の奥で低い唸りをあげ、何かを思い出そうとするかのように首を振る。 『アイ、ビス』  こちらの声が届くのか。彼はまだ、元の姿を取り戻す事が出来るのか。漂い始めた希望的観測はしかし、なりそこないが咆哮を放ちながら(ひれ)を振り上げる事で打ち砕かれた。一発でひとを潰せそうな鋭い一撃が振り下ろされ、サシュヴァラルが咄嗟にアイビスの身を抱きかかえて水を蹴ったが、鰭の巻き起こした水流は強く、海の王の継承者をして自由に泳ぐ事を奪われ、しばらく上下に揺れる羽目になった。  駄目なのか。あの頼り無いが親愛を込めて見つめてくれた笑顔を取り戻す事は、もう出来ないのか。諦めの雲がうっそりとアイビスの胸に漂い始めた時。 「これはこれは、アイビス王女!」  こんな時まで芝居がかった、慇懃な声が聞こえて、サシュヴァラルと共に睨むようにそちらを見やる。それまでなりそこないの陰に隠れて姿が見えていなかった、薄い金髪の中年男が、水に揺れる口髭をいじりながら、にやにやとした笑いを浮かべていた。  ジャウマ。彼がエレフセリア兵を連れてきたのか。何故、海底で平気な顔をして立っていられるのか。アイビスの疑念は顔に出てしまっていたらしい。 「不思議だ、というお顔をされていますね。しかい、何という事は無い」  将軍は髭から手を離し、まるで演劇の役者でもあるかのように両腕を広げて宣った。 「タバサ様が、ストラウス王の金庫を開けて、リザ王妃の日記を見つけ出されたのですよ」  アイビスはひゅっと息を呑む。たしかに、母は毎日、ペンを持って机に向かい、日記を書いていた。一度だけその中身を背中からこっそりと覗いた事があるが、アイビスには到底解読出来ない某かの文字が使われていて、内容を知る事を諦めてしまったのだ。  母の死後、日記はストラウス王の手に渡ったが、父も「これは私にも読めないな」と苦笑した後、その日記がどうなったか、アイビスが知る由は無かった。それをタバサが持ち出し、解読したというのか。 「簡単な暗号ですよ。タバサ様は聡明なお方だ、すぐに気づいた」  ジャウマは滑稽なほど優雅に両腕を水中に舞わせ、そして掌同士を向かい合わせる。 「古エレフセリアの言語を、反転文字として書いただけ。鏡に向き合わせれば、すぐにわかりました」  そうして解読した結果、頁の殆どは、他愛無い日々の出来事であったが、時折、海の民リーゼロッテとしての記述が残っていた。アリトラ海の底には、本当に海の民の城がある事。人魚の血を飲めば、海底でも人間は生きてゆける事。そして、海の魔女からもらった、少量でひとをひとならざる者に変える毒を、自室に隠した事。 「その結果が、これか」  呆然とするアイビスの横で、サシュヴァラルが語調に怒りを滲ませながら、ファディムであった竜のなりそこないを見上げる。ジャウマはそれを愉快そうに見やって、邪悪、という言葉が似合うほどに唇を歪める。 「なにゆえか、岩場に繋がれていた人魚を見つけましてね。これがそれを食い殺し、残った血を我々で分け合った次第であります」  役立たずの第五王子が、最後に役に立ちましたよ。そう付け加えて、将軍はくつくつと肩を揺らした。 「エスタリカを殺したのか」 「それが罪だと言うのなら、あんな所に迂闊に人魚を繋いでおくそちらが悪い」  サシュヴァラルの憤怒が、アイビスの胸にも鋭く刺さる。エスタリカはたしかに自分に悪意しか向けなかったし、殺されかけもしたが、それも全て、同じ異性を想うがゆえの哀しい行き違いだった。嫌いではなかったのか、と問われれば首肯出来ないが、むごたらしい死を迎えても良いとまでは思っていなかった。この事態を引き起こしたのは、自分の存在のせいなのだと、熱を持った身体の中で、腹の底だけが急速に冷えてゆく感覚を覚えた。 「さあ、与太話はここまでにしましょうか」  再び暴れ始めた、ファディムだったものから外した視線をこちらに向けたジャウマが、ゆっくりと鞘から剣を抜く。 「滅びよ、海底に永く棲み着いた化け物ども。全てはエレフセリアの」  打ち切って、「いや」と、彼は悪魔のごとき笑みを浮かべる。 「この私の手に!」  サシュヴァラルがアイビスから手を解き、「下がって!」と一声を浴びせながら肩を押す。流されるままにアイビスがよろめいた一瞬後、気合いを吐いて斬りかかってきたジャウマの剣を、サシュヴァラルのトライデントが眼前すれすれで受け止めていた。
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