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第4章:人魚姫は泡に還るか(5-1)
「流石は化け物」
間断無く剣を振るいながら、ジャウマが狂喜にも似た表情を顔に満たす。
「この私の剣を受けられる相手は、地上にはいなかった!」
「化け物なのは、貴様の方だろう」
トライデントの柄で、穂先で。必死に相手の攻撃を受け流しつつ、サシュヴァラルが声を張り上げる。
「心がな!」
「褒め言葉として受け取ろう!」
地上にいた頃から、ジャウマに剣で勝てる相手はいなかった。それは彼が血筋だけで将軍の座に収まったのではないという事を証明するのに充分な事象であった。だが、時にその攻撃が行き過ぎて、向かい合った兵の首を落としたり、心臓を貫いたりして、死に至らせた。それでも、咎められる者は誰もおらず――アイビスの言葉を彼は聞かないし、唯一彼に上から意見を出来るはずの姉もまた、その光景を嗤って見ているだけだった――、彼の増長を止める者はエレフセリアにいなくなってしまったのだ。
その結果が巡り巡って今、サシュヴァラルを危機に陥れている。何とか戦いを止める事が出来ないかと、ふらつきながらも水底を蹴ろうとしたアイビスの腕を、ひんやりとした手がつかみ留めた。
「駄目、アイビス」
シャオヤンテだった。兄に言われて素直に避難するはずの無い子であると思ってはいたが、まさか最前線まで出てくるとは。アイビスが目を点にすると、ゆるゆると首を横に振って、彼女は続ける。
「ボク達が介入出来る相手じゃない。兄貴の言う通り、キミは下がって」
その口ぶりに、つんけんした様子は感じられない。普段のそっけない仮面を引きはがすほどに、彼女もまた、アイビスの身を案じてくれているのだ。
「一緒に母上のところへ行こう。ボク達に出来る事は、何も無い」
言われて、アイビスは辺りを見回す。
海の民と陸の民。かつての大戦をなぞらえるかのように、祖を同じくする者が、刃を交わし合う。恐怖と、傲慢と、野心と、愛憎。様々な感情が入り乱れて、斬り裂き、突き、叩き潰して、血を流す。かつては同胞であった事を如実に示す、赤い血を。
その傍らで、ファディムが吼え、また城に体当たりをしている。狂ってままならぬ身を嘆くかのごとく、悲鳴のような唸りを繰り返しては、爛れた皮膚が更に剥がれて、暗い彼方へ消えてゆく。
本当に、自分に出来る事は何も無いのか。朦朧とする頭で必死に考えを巡らせるアイビスの耳に。
『アイビス、あなたなら出来るわ』
再び、母の声が聞こえた気がした。
聞く者を安心させるその優しい声音に導かれるように、己の右手を見下ろす。薬指にはめた蛋白石の指輪が、ほのかな光を放っていた。それで思い至る。レヴィアタンすら敬服させた、海の王族の守り指輪。この力があれば、もしかしたら。
「アイビス?」
シャオヤンテが胡乱げに呼びかけ、腕を引く。だが、アイビスの決断は早かった。空を飛ぶ時には、一瞬の躊躇が最大の失敗、つまり死を招く。そうならない内に前向きな判断を下すのは、この十数年の人生で、アイビスが身につけた大きな武器だ。それを今振るわないでどうするのか。
きゅっと唇を引き結び、シャオヤンテの手を振りほどく。少女が名を呼ぶ声を背中に置き去りにしながら、アイビスは力強く水を蹴って、ほとんど人魚のように自由に水中を泳ぎ、戦いの合間を縫って、ファディムの元へと近づいていった。
哀れななりそこない。その足元へ辿り着くと、風を詠んで着地する時のようにふわりと降り立ち、声を張り上げる。
「ファディム!」
呼びかけに、なりそこないの動きがぴたりと止まった。のろのろと、崩れかけた顔がこちらを向く。鮫のような歯が並んだ大きな口が、アイビスの名を呼びたいかのようにぱくぱくと動く。かつて汐彩華の中、彼の瞳が自分をまぶしそうに見つめて微笑んでくれた事を思い出せば、胸に迫る郷愁がある。
だが、それを振り切らねばならない。
「ごめんなさい」
ただ、詫びる事しか出来ない。これからする事に対してなのか。それとも、これまで積み上げてきたお互いの信頼を、永遠に断ち切る事に対してなのか。わからないまま、繰り返す。
「ごめんなさい」
なりそこないに向けて突き出した右の拳で、蛋白石がより一層強い虹色の輝きを放つ。
自分は、ファディムではなくサシュヴァラルを選んでしまった。もう、空は飛べない。彼が恋い焦がれてくれたアイビスには戻れない。それを思えば、水の中なのに視界がぼやけて、ファディムの姿がよく見えなくなる。
「ごめんなさい」
三度口にした時、歪む世界の中で、虹色の光に包まれ、なりそこないの体躯が、ぼろり、と崩れ出す。鰭が、足が、首が、粉になって灘雪と一緒に水に溶けてゆく。
『アイビス』
最後の胴体が消えゆこうとした時、それまでの苦しげな呻きではなく、いつも聞いていた、穏やかな義兄の声が、名を呼んでくれた気がした。
『ありがとう』
さようなら、どうか、幸せに。
その響きを最後にして、虹色の光は収まり、なりそこないの化け物がいた形跡は、城の柱のひびだけを残して、すっかり消え去った。
涙は水に溶けて出なかった。アイビスは顔をうつむけて、嗚咽を洩らす。そこにシャオヤンテが静かに寄り添い、そっと肩を抱いてくれた。
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