第4章:人魚姫は泡に還るか(5-2)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(5-2)

「何だと!?」  ファディムの姿が消えた事に驚愕したのは、そこで戦っていた全ての兵もだった。ジャウマも例外ではなく、剣を振るう手を止めて、思わずなりそこないがいた場所を振り向く。  それまで防戦一方だったサシュヴァラルは、最大の好機を逃さなかった。勢い良く突き出したトライデントは、将軍の鎧を容易く突き破り、胸板を貫いた。  喀血の声と共に、ジャウマが血を吐き出す。だが。 「まだだ、まだ、私は負けていない!」  赤茶の目に怒りを燃やして、彼は尚も倒れなかった。ぐっとトライデントの柄を握り、引き抜こうと力を込める。その手が、ごきり、と妙な音を立てて肥大化を始めた。手も、憎々しげに歪んだ顔も、ぱきぱきぱき、と褐色の新たな皮膚に覆われ出す。 「お前」変貌を始めた敵を唖然と見つめていたサシュヴァラルが、半眼になって呟いた。「盛られたな」  ほんの少しで、ひとをひとならざるものに変える毒。それを手に入れたタバサが、ファディムに使うだけで満足するはずが無かったのだ。 「あ、ああ、まさか、あの酒に……」  人間ではなくなってゆく己の両手を愕然と見つめながら、ジャウマが絶望にとらわれた声をあげる。それは次の瞬間には、「タバサ!!」と激昂に変わっていた。 「あの女狸(めだぬき)、私までをも(たばか)ったか!!」  それまで絶対の自信に満ちていた野心を挫かれた男は、ごぷり、と更なる血と共に呪詛を吐き、憎々しげに顔を歪める。 「滅びろ、滅びろ! 私が王になれぬ、あの女の支配する国など!!」 「では、貴様の望み通りにしてやろう」  ジャウマの恨み節を断ち切ったのは、その場に滑り込んだ、絶対零度の声だった。水を切って振るわれた錫杖が、彼の首を永遠に胴体と泣き別れにする。  驚愕に凝り固まった男の首と、ほとんど人間の痕跡を残さなくなってしまった身体が、血の尾を引きながら、ゆらり、と流されてゆく。それを冷たい深海色の瞳で見送っていたメーヴェリエル女王は、ジャウマの姿が闇の向こうに消えて見えなくなると、しゃん、と錫杖を鳴らし、その場で戦っていた者達全員に呼びかける。 「地上の民の首魁は討ち取った。争いをやめよ。従わぬ者は、地上も海も問わずに、わらわが罰を下す」  静かだが、有無を言わさぬ迫力を込めた女王の言葉に、逆らう気概を持つ者は誰もいなかった。誰もが武器を下ろし、エレフセリアの兵は力無くうなだれて、戦闘は閑寂の彼方へと去っていった。 「地上の民は、またも我らを脅かした」  静まり返った海底に、深い怒りを包括したメーヴェリエル女王の声だけが、凜と響く。 「お互いに侵略をしないという文無き盟約に反したエレフセリアを、許してはおけぬ」  その言葉に、生き残ったエレフセリア兵が狼狽え始めた。タバサに命じられ、ジャウマに率いられたとはいえ、直接海の民を攻めた尖兵は自分達だ。手始めに首をはねられても文句を言えない状況である事は、彼らも理解したらしい。たちまち恐慌が訪れる。 「お待ちください、伯母様。いえ、メーヴェリエル陛下」  混乱の渦に一石を投じたのは、アイビスだった。蛋白石の光を浴びた効果もあったのだろうか。身を苛んでいた熱は去り、しっかりと周囲を見渡す事が出来るようになった目で、まっすぐに女王を見すえる。 「今回の事は、わたしの姉とジャウマが企んだ事。戦わされた兵や、エレフセリアの民に罪はありません」  それでも、と。はっきりした口調で、アイビスは言い切った。 「それでも、エレフセリアが許せないとおっしゃるのであれば、どうか、わたしの命を引き替えに、民の命はお見逃しください」
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