第4章:人魚姫は泡に還るか(5-3)

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第4章:人魚姫は泡に還るか(5-3)

 途端に、メーヴェリエルは半眼になり、アイビスに問うてきた。 「それは、『海の女王の姪』ではなく、『エレフセリアの王女』としての願いか?」 「はい」  迷い無くうなずけば、女王は値踏みするような眼力でアイビスを見つめる。サシュヴァラルやシャオヤンテが心配そうに見つめる気配を背中に感じたが、ここで目を逸らしたら負けだと思い、直立不動のまま、女王の返事を待つ。  永遠のような時間が流れた。あるいは、ほんの数秒だったのかもしれない。ふっと、メーヴェリエルが相好を崩し、 「つくづくリーゼロッテに似て、一本気な娘よの、そなたは」  と肩をすくめてみせた後、神妙な表情を顔に満たした。 「よかろう。民は見逃そう。兵も地上へ帰そう。罰は王族のみに下す」 「母上」  罰は王族のみに、という言葉を聞いたところで、慌てた様子のサシュヴァラルが制止をかけてきた。が、女王は息子を鋭い一瞥で黙り込ませて、「だが」と続ける。 「妹の娘であるそなたをみすみす地上に帰して死なせたくはない。選んでたもれ。海の民として生きるか、陸の民として死すか」  その口上を聞いた時、アイビスの耳は勘づいた。女王はもう、地上の言葉を使っていない。海の言葉でアイビスに語りかけている。だが、これまで感じていた、「翻訳されている」という違和感を覚えない。アイビスがそこまで海に順応した証拠なのだ。  もう、元には戻らない。  瞑目し、ひとつ、ふたつ、もう必要無いのかもしれない深呼吸をして、アイビスは、海の言葉で宣誓した。 「エレフセリア第二王女アイビスは、死にました」  それは、もう二度と地上の民には戻らないという誓いだった。  汐彩華舞う中、風を受けて空を飛ぶアイビスを見守ってくれた子供達。新鮮な魚を届けてくれた気の良い漁師。姉に虐げられる妹姫を、それでも慕ってくれた人々。エレフセリアの全てが悪ではないという、アイビスが後ろを向かずに生きてこられた証左だ。  それを今、全て、捨てる。その宣言を、自分はしたのだ。 「……承知した」  アイビスの覚悟を受け取ったメーヴェリエル女王は、しゃん、と錫杖を鳴らした。途端、海底に残っていたエレフセリア兵の姿が忽然とかき消え、追いかけるように、海流がひとつの渦を巻いて地上を目指していった。 「アイビス」  同じ温度になったサシュヴァラルの手が掌に滑り込み、心地良い声が鼓膜を震わせる。この手を、この声を選んだのだ。アイビスは顔をぐしゃぐしゃにして、その逞しい胸にもたれかかる。熱はもう無い。海の全てが、かつての空のように身に染み渡る。  エレフセリア王女は、泡にならずして死した。  そして、新たな人魚姫が、誕生したのであった。 「おっそいわね」  エレフセリア王宮のウッドデッキで椅子にかけ、茶器をかちかち鳴らしながら、タバサは悪態を()いた。  毒を飲ませたファディムを使って人魚の血を探り当て、ジャウマ達を海底へ送り出した。そろそろ金銀財宝を手にした彼らの帰還があっても良い頃だが、その気配はいまだ無い。 「まったく、どいつもこいつも、結局役立たず」  大方、人魚達にたぶらかされて海底に居着いたのだろう。それならそれでまあいい。ジャウマにも人ならざるものに変態する毒は仕込んである。失敗すれば、兵や海底の民もろとも、海の藻屑となるだろう。邪魔者は全員消えて、自分の思い通りになるエレフセリアが生まれる。  その後は、夫を海で亡くした悲劇の王女を装って、顔も頭も良くて自分の意のままに動いてくれる、年若い男を婿に迎えれば良い。四十路のジャウマなどという汗臭い男に抱かれるところなど、想像しただけで鳥肌ものだったから、せいせいした。  そんな事を考えながら、ずず、っと汚い音を立てて茶をすすった時。  突如、それまで雲ひとつ無かった蒼穹に、暗雲が立ちこめた。暗くなった天空の下、アリトラの海が騒ぎ始める。波は次第に渦を成して、まさに海竜のごとくなると、自分――そう、たしかにタバサだけを狙って迫ってくるではないか。 「な、何!? 何なのよ!?」  思わず茶器を放り出す。甲高い音を立てて高価な茶器が割れ、中の茶が破片と共にまき散らされるのも構わずに、波に背を向けて一目散に走り出す。だが所詮人間の足。迫りくる脅威はあっという間に追いつく。 「誰か! ちょっと、誰かいないの!? 助けてよ!!」  怒鳴っても、誰の応えも返らない。 「ああ!」  振り返った瞬間、波が巨大な獣のようにそそり立って自分に覆い被さってこようとするのを目の当たりにし、タバサはそのそばかす顔を心底の恐怖で引きつらせ、吐き捨てるように怒鳴り散らす。 「何であたしばかりがこんな目に遭わなくちゃいけないのよ!?」  最期まで愚かだったエレフセリア第一王女の命と王宮を、波は竜のごとく丸呑みにし、跡形も無く消し去った。
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