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第1章:陸(おか)の赤き姫と、海の青き人魚(3-2)
着替えを終え、自室へ戻ると、アイビス付きの侍女が丁寧なお辞儀で出迎えてくれる。寝台と鏡台、書き物用の小さな机と、空を飛ぶ事や海に関する書物の並んだ本棚が入れば、室内は最早いっぱいいっぱいだ。更に壁を埋めるように、多種多様な色が混じり合った大きな鳥の羽や、蒼穹と大海を描いた絵画が飾られている。アイビスの趣味で満たされた部屋だ。窓は開け放たれ、アリトラの大海原が見える。
促されるままに鏡台に向かい合えば、侍女はアイビスの頬におしろいをはたき、花の香油を赤い髪に染み込ませてゆく。まだ歳若い肌は健康的である上に、母譲りの端正な顔を持つアイビスは、必要以上に化粧を重ねる必要は無い。だが、「王女たるもの、常にそれなりの身なりを保ってこそ、民を安心させるのです」と世話役が口をすっぱくして繰り返すので、多少顔を整える事に関しては、甘んじて受け入れている。
やがて、艶を帯びた髪に白薔薇の髪飾りを挿し、薄化粧を施した白い顔の美少女が、紅をのせた唇をすぼめ、鏡を覗き込んでいた。これを見る度に、違う、と感じる。風を受けて空を飛び、汐彩華と砂埃にまみれながら、小麦色の肌をさらしている方が、よっぽど自分らしいと感じる。
だが、アイビスのそんな違和感を理解しない大人はそれなりの人数がいる。その内の一人である最も身近な存在が、部屋の扉を叩く音がしたので、彼女はますます不機嫌を胸の内に抱く羽目になった。
「やあ、アイビス」
扉を開いて入ってきたのは、背の高い筋骨逞しい男だった。褐色の肌に、日に焼けて薄金になった髪。かつて一族に降嫁した王族の血を引く事を示す赤が入り混じった茶色の目は切れ長で、鷲鼻の下には髪と同じ色の髭をたくわえている。侍女が優雅に礼をして部屋を出てゆくと、場にはアイビスと男だけが残された。
「何かご用ですか、将軍」
「『ジャウマ』と呼び捨てにしてくれて構わないと言っているだろう。敬語も無しだというのに、私の姫君はまだまだ頑なだね」
アイビスが赤い目を細めると、相手はお手上げとばかりに両手を広げ、おどけた表情を見せる。彼こそが、王国軍第一位であり、アイビスの婚約者である、ジャウマ将軍その人であった。
エレフセリア王族は、五百年、民に慕われる揺るぎない施政を行ってきた。だが、その栄光に翳りが見え始めたのは、現王ストラウスが、アイビスの母であるリザ王妃を失った後からだ。愛する妻達を連続して亡くした王は、すっかり政に対して無関心になり、会議に出てもおざなりな反応しか示さなくなったのである。
それでもエレフセリアが国としての機能を失わなかったのは、その家臣達がおしなべて優秀であったからだ。更に幸運だったのは、その中に、王位を簒奪し今の王族に取って代わろうとする、野心的な輩が存在しなかった事である。彼らは純粋に国の為、民の為に心を砕き、無気力なストラウスがいつか立ち直ってくれるよう願っていた。
しかし、そんな彼らの願いにも似た期待に反して、アイビスの父は腑抜けたまま立ち直らず、更にこの一年は床に伏せがちになっている。国政は第一王女のタバサが代理として書類に王印を捺す。それを補佐するのは、宰相の長男であり、王国軍の要でもあるジャウマ将軍の仕事となった。
彼は瞬く間にタバサの信頼を得て筆頭家臣としての地位を確立すると、王族の一員に列せられるべきとの声もあがった。民の人気も、次期国王としてはいまいち頼り無いファディムより、豪胆な判断を下して国を盛り立てるジャウマに集まった。が、エレフセリアは庶民も王族も一夫一婦制を貫いている。更には、どんなに惰弱でも、友好国ディケオスニから婿入りしたファディムを一方的に離縁して国へ追い返すのは、国際問題に発展しかねない。
よってジャウマは、いまだ許婚のいなかったアイビスの将来の夫となり、エレフセリアの政治と軍事の両方を司る事を定められたのである。
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