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俺の嫁さんはな、と武史さんはよく言う。
嫁さんか……。私は、その度に深くため息をつくのだ。彼女が亡くなられてから、もう12年も経つというのに。
「奥さんは本当に素晴らしい方だったんですね。」
「なんであんなに早くに……。」
うぇっ、うえっ。武史さんがこうして嗚咽を始めるまでが、一連の流れとなっていた。いつまでこうしていれば、私を見てくれるんだろう。
近くにいれれば良い。彼を支えられれば良い。そう思っていたはずなのに、なぜだろう。
「すまないなぁ。いつも情けない。」
これも何度目だろう。武史さんは、どれだけ酔っても私を家まで送り届けてくれるのだ。
「神田はまだ彼氏ができないのか?」
これもこれも。
「好きな人がいるんです。」
口がいつの間にか動いていた。心は、いつもと違う展開を求めていたようだ。
「……好きな人? さっき言ってくれよ。飲みながら話できたのに。まあ、俺が話しすぎたからだよな。」
「いいんですよ。武史さんはそれで。」
「悪いな。今度、また飲んだときに話してくれよ。近々いこう、いつ空いてる?」
ほら、結局何も変わらないんだ。
彼氏を探していた時、武史さんを友人に紹介してもらった。その場でやっぱり俺は嫁さんが忘れられない、と武史さんが謝りながら泣き出したのは、もう10年も前になる。私はそれほどまでに、深く奥さんを愛する武史さんにすぐ惹かれてしまった。それからまもなく飲み友達というポジションを確率した私は、彼と何十回いや何百回、同じやりとりをしてきたことか。武史さんはいつも、私の手にさえ触れてくれない。
「たまには神田の役に立ちたいんだ俺も。」
黙り込んだ私に、武史さんが言葉で促す。
「じゃあ、もう会うのをやめてください。」
私の心は、もう精一杯だった。限界が来ていることには、とっくに気づいていた。
「え……? どうしたんだ神田。」
武史さんが何事かと、驚きと悲しみの混じった顔をしている。私には、その顔が直視できなかった。
「私は……、もう苦しいんです。やめましょう。」
ああ、告白も同然だ。神田さんは、目を丸くして私を見ていた。その頬が赤いのは、お酒のせいだってわかっている。
「えぇ……。そうなのか……。その……。」
次にくる言葉はわかっていた。気づかなくてすまん。その言葉を聞きたくなかった。謝られたら、自分のこれまでを否定されたような気分になりそうだから。
「やめてください。私は、好んであなたの隣にいたんです。自分の意志で。」
私は、意を決して武史さんをまっすぐみつめた。
「だから、あなたを忘れます。あなたを忘れて、違う幸せを探しますね。」
そのとき浮かべた笑顔は、人生で一番へたくそだったと思う。気が向かない時にカメラを向けられた子どもの方が、よっぽどましというものだ。
「もう、会ってくれないのか?」
その聞き方はずるい。私は唇をかみしめた。じんわりと血の味がする。
「……会わないです。」
何かがとれたように軽くなったとたん、ずっしりと何か重いものがのしかかった。言ってしまった。私、言ってしまったんだ。
「……わかった。今まで……、ありがとう。」
その時初めて握られた手は、とても温かかった。見た目よりもずっと分厚いんだな、そんな野暮な感想が頭に浮かんで消えた。
「じゃあ。」
彼の背中は、丸く縮こまったように闇夜に溶けていった。
あれから3カ月。彼からはなんの音沙汰もなかった。もちろん、こちらから連絡をするなんてこともない。好きなのに離れるって、こんなに苦しいのかとこの歳になって初めて気が付いた。
「なんであんなに好きだったのに、離れることにしたの?」
友人に聞かれたことがある。あのまま彼といれば自分が壊れそうな気がしたから、だろうか。
「今でも十分壊れちゃってるじゃん。」
友人は私を見て悲しそうな顔をしていた。そんな彼女に、幾度か合コンに誘ってもらったことがある。私の幸せは、このなかの誰かが与えてくれるのだろうか。そんな風に考えては、落ち込んでしまうのだ。一緒にいるだけ、それだけで無条件に幸せだったあの日々には戻れっこない。あんなに幸せな時間はもう訪れない。
今日の合コンだって、私の胸は一度たりともときめくことがなかった。ひとりで帰る家路に、冷たい風が吹き込む。案外、こういうのも悪くないかもしれない。
「まってください、神田さん。」
「え?」
振り返ると、そこには合コンで一緒だった男の人がいた。雄二さんだ。
「同じ電車だったんですよ。神田さん足早に行っちゃうものだから、なかなか追いつけなくて。」
はにかんだ笑顔がかわいらしい。
「ごめんなさい、気づかなかったです。」
「いやいや、僕の足が遅いんですって。あ、送っていきますよ。家どっちですか?」
彼と何かあると期待しているわけではない。だけど、久々に胸が高鳴るのを感じた。彼は、合コンを開いてくれた友人のイチオシだった。絶対私と合うって、言ってくれていたっけ。
「家は……。」
私が方向を指さそうとしたそのとき、指先に誰かが立っていた。
「この前はすまなかった。」
武史さんだった。なんでこんな時に……。人生のタイミングって、いつもかみ合わないものだ。彼の手には、花束が握られている。
「神田さん?」
雄二さんが首をかしげている。
「神田、俺が送っていくよ。」
私の一番好きな花を持ってくるなんてずるい。スズランの花束、花言葉は幸福の再来。武史さんの次なる幸福になりたくて、ずっと部屋に飾っていた。もう部屋からその姿はきえていたけれど。幸福の再来、か……。
「ごめんなさい、私この人と帰ります。」
私は、気が付くと彼の手をとっていた。
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