桐島隆と美咲の結婚

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栗田 美咲はカッカッカッと廊下の床に穴が空きそうなぐらい、大きな足音をさせて1階受付カウンターを目指していた。 受付には2種類あった。受付カウンターはオモテ、事務室はウラと呼ばれていた。オモテは来客対応。ウラは電話対応、事務作業など名前通りの裏作業。美咲は7年間オモテで仕事をしていた。 「何が、美咲さんみたいになりたくないよっ。ウラなんてやらないから」 受付専用女子ロッカーのゴミ箱にくしゃっとねじ曲がったミネラルウォーターのペットボトルを投げ入れた。 「美咲さーん」 背後から声をかけて来たのは、さっき給湯室で美咲のことをバカにしていた後輩 神崎(かんざき)希美(のぞみ)24歳。 「なーに。のぞみちゃん」 美咲は笑顔を作っていたが目は笑っていない。 「あのぉ、私、結婚することになりました」 希美は朗らかな口調だが、美咲に馬乗りになって完全勝利を宣言しているようだった。 「えっそうなの、おめでとうーー」 美咲は無理やり1オクターブ高い声で語尾を2倍伸ばしてみた。 「仕事は、続けるの?」 「辞めます」 「寂しくなるなー。希美ちゃん仕事できるしもったいないな」 全部嘘だ。いつもやたらと若さだけ強調してくる一番嫌いな後輩だ。役員車のナンバーも覚えない。取引先も覚えない。英会話も、とにかく何もできない。そう思っていたバカ女が私にマウント取りに来てる。 「海外事業部の清水さんなんです。彼、3月からニューヨークへ。急な異動で 私も一緒に来て欲しい。ってなので今月いっぱいで退職しまぁす」 海外事業部は社内でもエリートコース。ニューヨーク駐在は出世コースのラインに乗ったといわれている。 入社してからずっと何かにつけバカにされ続けて来た。美咲に勝てるところは年齢しかない無力感に苛まれたこともあった。美咲に勝った今この瞬間を希美は目に焼き付けてようと、美咲の表情をじっと見つめていた。 「あーーー。そう、へぇー。達也(たつや)がね。ふふふ」 「達也……」 希美は美咲が清水の名前を呼び捨てにして、何か含み笑いをしていることが 気になっていた。勝ち誇っていた優越感に、不安という毒がスポイドで一滴落とされたように感じた。 「ごめん、そう呼んでたから。あーーー希美ちゃん。変に誤解しないでね。長く会社にいるから知ってるの。それだけっ」 美咲は希美が給湯室で自分のことを、御局様呼ばわりしていた事を皮肉っぽく揶揄しながら、ねっとりと笑った。 一滴の毒がどんどん染み込んでいく。希美は黙って立ち尽くしている。 「美咲さん、何がおかしいんですか」 我慢しきれなくて希美は美咲が笑っていたことが気になって聞いてしまった。 「えっ、だって、達也、あっいや清水さんね」 わざとらしく美咲は言い直した。 「ニューヨークに行きたいんだって。よく言ってたのよ。出世したいんだなって思うじゃない。そしたら、ニューヨークの鳩をみたいって、言ってたよね。あはは」 希美は意味が全くわからなかったが、知ってるそぶりで笑顔を作っていた。 「ニューヨークにカラスいないんだ。だからニューヨークの鳩は強いんだよね。いいんだよね。って。えっ、だからニューヨーク駐在したいのって 鳩好きすぎバカよね。あっ、ごめんね。ばかだなんてね。希美ちゃんの旦那さんなのに」 希美は清水が鳩が好きだなんて知らなかったが、我慢して笑顔のお面をつけ続けていた。 美咲は自分のロッカーを開けて、カーディガンをハンガーにかけながら、 希美の不安げな笑顔を開け放たれたロッカー扉の鏡越しに見て嘲笑を浮かべた。 「あっ、あそこにも連れてかれたんでしょ。御前通にある元鳩ショップ」 美咲はロッカーに鍵をかけて、満面の笑みで振り向いた。 希美は動揺を知られたくないので自分のロッカーを開けて、美咲に背を向けていた。 「ええ。行きましたよ」 ボソッと答えた。 「やっぱりぃ。大変ね。希美ちゃん。鳩舎がそのまま残ってて、何枚写真撮るのってぐらいねぇ。うふふ。お店のおじさんとずーと話しこむから長いのよねあそこ行くと。ほんと鳩好きよね」 希美はもう答えなかった。ロッカーの整理をしている感じで、ただ頷いていた。 「希美ちゃんは、文句も言わずに一緒に行ってあげるんでしょ。素直で可愛くて、清水さんそういうとこに惹かれたのね。おめでとう」 希美の背中にとどめを刺すように、誉め殺しのセリフを言い放って美咲は カッカッカとヒール音を響かせながらロッカールームを出て行った。 「私の方が良いでしょ。負けるわけないじゃない。負けたことないのよ」 自然光が輝くガラス窓、観葉植物のグリーンが際立つ吹き抜けの空間。来客者を圧倒する豪華な正面玄関の中心で美咲は呟いた。 ロッカールームに一人残された希美から笑顔は消えていた。 美咲の毒で不安が溢れ出し、結婚の優越感、高揚感は全て押し流されていた。 今の希美は猜疑心の塊になっていた。 「美咲、美咲」 午後5時30分 従業員通用口付近で大声で叫びながら美咲の目の前に駆け寄って来た男。清水(しみず)達也(たつや)だ。  
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