その鼠は龍と語らう11

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その鼠は龍と語らう11

「ヒィ……ヒィ……ヒィ……」  馮則は悲鳴のような息を吐きつつ、森の中を一生懸命に歩いていた。  こんな声を出してしまうのは、その手に下げているものが原因だ。 「生首って意外と重い……」  見事黄祖を討ち取った馮則だったが、小柄な馮則には成人男性の遺体を担いで歩くほどの体力はない。  だから黄祖の持っていた剣で首を切り落とし、剥いだ衣服で包んで手から下げているのだ。  途中で失敗だったかな、と思ったのは、首を兜ごと包んでしまったことだ。ただでさえ重い生首に金属製の兜がかぶさっているのだから、結構な重量になっている。 (でも、包みを開いてもう一度生首と対面するのは絶対にご免だ)  そもそも首を切り落とす段階で何度も吐くような有り様だったのだ。兜を脱がさずに包んでしまったのも、少しでも早く生首を視界から隠したかったからだった。  さらに言えば、見えずとも手に下げているだけでも気味が悪くてしょうがない。ヒィヒィ言っているのは重さのせいばかりではないだろう。 「さすがに大将首をほっぽらかすようなもったいない真似はできねぇしなぁ」  ぼやくようにして自分に言い聞かせた。  どれだけ気味が悪くても、これほどの大手柄を捨て置くわけにはいかないだろう。それくらいの常識はある。  それに、今の馮則には強く望むものがあるのだ。 「この恩賞で……この恩賞で……俺は……」  喉から手が出るほど欲しいもの。それが自然と口からこぼれた。 「兵士を辞める!」 「…………」 「……」  言ってから、自分でも変な褒美を望んでいるような気がして口をつぐんだ。  これが今、本当に心の底から望んでいることなので何の疑問も抱いていなかったのだが、よくよく考えてみると変な気がする。  馮則は強制的に徴兵されたわけではない、いわば志願兵だ。今回の戦は折悪かったものの、普通なら辞めようと思って辞められないものでもないように思う。  それに褒美とは普通、何かを貰うものではないだろうか。辞職を認めてもらうのが褒美というのはやはり変だろう。 「じゃあ……うーん……無職も困るし、調教師の仕事を斡旋してもらうか?」  しかし乱世のお陰と言ってよいのか、軍馬の需要はいくらでもあるから斡旋が必要とも思えない。 「ならいっそ、自分の牧場でもお願いしてみるか?」  牧場主として、そこで育てる馬たちの調教も行う。  前の職場の牧場主はそれなりに羽振りが良かったし、なかなか悪くない人生に思えた。 「よし、決めた!褒美に牧場の土地と繁殖馬をいくらかお願いしよう!」  我ながら名案だ。  この流れなら兵を辞めるのも自然だし、育てた馬を孫権軍に卸すと言えば角が立たないどころか歓迎すらしてもらえるだろう。ついでに顧客も獲得だ。  気分が明るくなったせいか、少し軽くなったように感じられる生首を振りながら森を歩く。  そうしていると、かなり向こうの樹間に一頭の馬が見えた。  それと同時に、明るくなっていた気分がズンと沈んだ。見覚えのある馬だったからだ。 「……馮則?貴様、何だその格好は」  馬上から予想通りの声がかけられた。  李観だ。馮則の上官である李観が愛馬にまたがって向こうからやって来る。  相変わらず馮則を見下した目つきで、その上の眉が怪訝そうに寄せられていた。馮則が下帯一丁のザンバラ髪になっているのを(いぶか)しんでいるようだ。  一騎だけということは、おそらく騎馬隊全部がこの森に散開して黄祖を探しているのだろうと思われた。 (そりゃ俺は味方の方に戻って行くんだから、そのうち誰かと会うとは思ってたけど……まさかこいつに当たるとはな)  正直なところ、最悪な気分だ。せっかくの夢見心地が台無しになった。  とはいえ正直にそんな感想を言えば、ひどい体罰が待っていることは間違いない。無理やりにでも愛想笑いを浮かべた。 「これはその……黄祖をやる時に色々ありまして」  それを聞いた李観の目が、ようやく手に下げている布の包みへと向いた。  赤い血の滴るそれを見やり、驚愕に見開かれる。 「そ、それは黄祖の首か!?貴様が獲ったのか!」 「俺がっていうか、大体は白龍の手柄なんですけど……白龍は……その……行っちまいましたから……」  馮則にとって非常に重い事実を口にしたのだが、李観はまるで上の空で白龍のことは聞き流した。  急に目をギラつかせて再度確認した。 「本当に、本当に黄祖の首なのだな?」 「ええ、そうですけど……」  うなずくと、まだかなり遠いにも関わらず李観がゴクリと生唾を飲む音が馮則の耳に聞こえた。  嫌な予感がして無意識に後ずさる。  そんな馮則に対し、李観はこれまで発したことがないような猫なで声で話しかけた。 「素晴らしい、素晴らしい働きだぞ馮則。どれ、私にもその首を見せてくれ」  愛馬を進ませて近づこうとしたが、その分だけ馮則は後ろに下がった。  それを見た李観は媚びるような笑みを浮かべた。 「何だ、ちょっと見るくらい良いではないか。それに首は意外と重いだろう?私の馬で運んでやるから、こちらに渡せ」  その『こちらに渡せ』という言葉だけが不思議なほど力んでいた。  まさかと思いながら馮則は尋ねる。 「た、隊長殿は……ちゃんと後で返してくれるんですよね?」  そう問われ、己の意図がすでに悟られていると気づいたのだろう。李観の顔に貼り付いていた笑みが急に剥がれた。  それから首を回して周囲に誰もいないことを確認し、冷ややかな目で馮則を見下ろした。 「……ふん、貴様のような素人は知らんかもしれんが、戦場では貰い首など珍しくもないものだ」  思った通り、李観は手柄を横取りする気だったらしい。  馮則はそれまで形ばかりは上司だったこの男への態度を改めることにした。 「ふ、ふざけんじゃねぇ!それじゃ貰い首じゃなくて奪い首だろうが!」 「どっちでもいい。総大将の首など貴様には過分な手柄だ。痛い目を見たくなかったら大人しくよこせ」  李観の槍がヒュッと音を鳴らして空を切った。  さすがは騎馬隊の隊長なだけあり、槍捌きは見事なものだ。  一方の馮則は丸腰などころか半裸である。黄祖の首を落とした剣があったわけだが、重いし持って来ることを思いつきもしなかった。 (殺される……)  彼我の戦闘力を思えば当然の帰結だ。他の予測など立ちようがない。  そして李観にとってもそれは間違えようのない事実だった。 「抵抗するだけ無駄だぞ。ただ、もしお前が素直に首を渡してこのことを口外しないと誓うなら、命だけは助けてやる。軍を辞めても食っていける程度の銭もくれてやろう。俺は誠実な男で、約束は破らんぞ」 (嘘つけ!)  以前の勝負で李観がイカサマをしていたことを思い出し、馮則は心の中で罵った。  ただし、状況としては李観の慈悲にすがる外なさそうだ。たとえ裏切られて殺されるにしても、真っ向から立ち向かうよりは気紛れで助かる可能性もあるだろう。 (よほどみっともなく命乞いをして見せれば、こいつも殺す気が失せるかもしれねぇ)  そんなことを考えたが、どうしてもそれを実行する気にはならなかった。  別に情けない姿を晒すことは構わない。自分のような鼠男が今さら格好を気にしたところで仕方ないだろう。  しかし、この首を渡すのだけは絶対に嫌だった。  これは白龍が自分に獲らせてくれたものだ。いわば、最後の置き土産と言うべきものだろう。  その大事な宝を、こんな下衆野郎に渡してたまるかと思った。  だから馮則は背筋を伸ばした。  鼠は鼠でも、自分は龍に乗って空を駆けた鼠なのだ。そんな風に胸を張って口を開く。 「おととい来やがれ、このすっとこどっこい」  その返答に、李観の目はスッと細められた。  それから無言で馬の腹を蹴る。  李観の愛馬が全力で駆け始めた。手にした槍の穂先は真っ直ぐに馮則の胸へと向いている。 (ああ、死ぬ)  それを受け入れた馮則は、このまま胸を張ったまま貫かれようと思った。  せめて死ぬその瞬間まで、栄えある白龍の騎手であったことを誇りたいと思った。  そしてやけに静かになった空気を吸い込みつつ、自分を殺すために来る騎馬を眺める。 (……何だ、このへっぽこな馬は)  不意に、そんな感想が頭に浮かんできた。  酷いものだと思った。  力、速さ、重心、足運び、そのどれもがてんでなっていない。  と言っても、騎馬隊の隊長である李観の愛馬なのだ。実際にはなってないどころか、標準的な質の馬と比べても相当な良馬である。  しかしここのところずっと白龍にしか乗っていなかった馮則からすると駄馬も駄馬、まさにてんでなってないとしか評せない走りに見えた。 (おいおい、そんなんじゃちょっとしたことで転倒しちまうぞ?例えばほら、こんな障害物が転がってきたら)  そんなことを考えつつ、ほとんど無意識に手から下げていた生首を放った。  すると馬は足元に転がってきた生首に蹄を乗せ、そして滑らせ、盛大に転倒した。ここしかないという絶妙な位置だった。  それがあまりに派手なこけ方だった上、乗っていた李観は鼠相手と完全に油断していたらしい。手綱をしっかり握っていなかったこともあり、 「え?」 などと馬鹿みたいな声を上げながら、面白いように宙を飛んでいく。  まるで城攻めに使われる投石器から放たれた岩のようだった。  そして投石よろしく木の幹に頭から激突し、気の毒なほど重い音を響かせ、受け身も取れずに地面へ落ちた。  その後はピクリとも動かない。 「…………死んだ?」  馮則はポツリとつぶやいたが、返事はない。  大道芸ではないかと思えるほど滑稽な飛び方だったので、いまいち死んだ感じがしなかった。  だが、ぶつかった勢いを考えれば死んでいてもおかしくはない。 「まぁ……どっちでもいいか」  憎い相手ではあるが、何となく生きていた方がざまぁみろという気分になる気がする。 「しばらく起きないんならそれでいい」  不思議なほど心が軽くなったのは、李観の冗談のようなやられ方のせいか、それとも飛びながら漏れていた間抜けな声のせいか。  なんにせよ、こんな馬鹿にこれまで苦しめられていたことが心底馬鹿馬鹿しく思えてきた。 (忘れよう。もう俺には関係ないやつだ)  気持ちを綺麗さっぱり入れ替えて、転倒させてしまった馬へと歩み寄る。  自分はこれから牧場主になるのだ。馬は大切にせねばならない。 「悪かったな。どうだ?立てるか?」  馬は派手な転び方をした割に、擦りむいているだけで大きな怪我はしていなかった。  踏ん張りようのないほど見事に倒れたのがむしろ良かったのかもしれない。骨や関節には異常がなさそうだ。  馮則は馬の周りをぐるっと回って無事を確認すると、鞍に手をかけて飛び乗った。  これでもうヒィヒィ言いながら歩かなくても済みそうだ。 「ふう……やっぱり馬があると楽チンでいい……いい……いい?」  しかし騎乗していると、すぐにその快適さに水をさされた気分になった。どうにも馬の粗に目が行ってしまうのだ。  先ほども思ったように足運びがいまいちだし、何より歩みに力がない。馬体を見下ろせば、筋肉の付き方の均衡も良くないように思えた。 (……いや、落ち着いて良く見るんだ俺。どう考えてもこの馬は並の馬よりも上等だぞ)  調教師としての経験から客観的にそう認識することは可能なのだが、自然と湧いてくる感情としては不満しかなかった。  あれが足りない、これが足りないと、足らずの部分ばかりが目についてしまうのだ。  もちろん何に対する足らずかと言えば、白龍に対する足らずである。 (いやいやいや、そりゃ俺だって白龍と比べちゃいけねぇのは分かってるけど……まいったなぁ……どうしても気になっちまう)  あんな名馬にはもう二度と出会えないだろう。  そんなことは分かっているのだが、それでも白龍はこうだったと思い出してしまうのだ。  牧場主として、どんな馬にも不満を感じてしまうのは良くないことのように思える。  いっそ白龍のことを忘れてしまえれば解決するのだが、そんなことは絶対に嫌だし、まず間違いなく不可能だ。  龍に乗った経験を忘れられる人間などいるだろうか。いるわけがない。  そしてそれは鼠だって同じことなのだ。 「まいったなぁ……まいったなぁ……」  馮則は首を振り振りぼやきながら、尻に伝わる振動の物足りなさに頭を悩ませるのだった。
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