第2話 馬磨き

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第2話 馬磨き

(稼がねば、食っていけん)  許靖(キョセイ)は汗水たらして働きながら、そう思った。  郡役所の厩舎である。  馬を磨くために束ねた(わら)を、せわしなく上下に動かす。  役所で使っている馬は立派な体格のものが多く、体全体を曲げ伸ばししながら磨かねばならない。おまけに何度も重い桶を持ち上げて水を掛けなければならないし、その水桶を汲みに井戸まで何往復もしなければならない。  かなりの重労働だ。 (食うために稼ぐことの、なんと辛いことか)  そんなことを思いながら、手の甲で額の汗をぬぐった。  許靖はつい先日まで半分学生のような身分で、実家のやっかいになっていた。  が、二十歳をいくつか越え、従兄弟の許劭(キョショウ)が官吏として活躍していることもあり、さすがに心配になってきた父から自活を命じられたのだ。それがつい二月ほど前だった。  父が用意してくれたのは丘の上の一軒家と、一月分ばかりの生活費である。実家はそれなりに名門なので食い扶持の斡旋ぐらいはできたはずだが、父はそれもしてはくれなかった。  どうやら父としては『息子に世間の厳しさを体験させなければ現状を打破できない』という結論に至ったのだろう。  ふと、従兄弟の許劭の顔が脳裏をよぎる。 (あいつが郡の役所で採り立ててくれれば……) とは、考えない。考えたこともなかった。  許劭が郡の人事権を握ったところで、許靖に何かしらの役職を用意するわけがないことは以前から分かっていたことだ。  許劭の自分に対する評価は、低い。とても低い。それは許劭本人から何度も直接聞かされている。 (だが、他人にまで悪しざまに言わなくてもよかろうに)  許靖に仕事がないことの大きな理由がそれだった。  月旦評(げったんひょう)は許靖と許劭の二人が中心になって開催していたことは、世間によく知られている。しかも二人は従兄弟同士だ。  自然、許靖を使ってみようかという人間は、まず郡で大きな役職を得ている許劭にその人となりを聞きに来たり、紹介を頼んだりすることが多かった。  が、その時の許劭の回答はいつも同じだった。 「あんな腑抜け」  そのたった一言で、許靖の食い扶持は斬って捨てられるのだった。  腑抜け。  それが許劭の許靖に対する一貫した評価だった。  許靖は腑抜けと吐き捨てる従兄弟の顔を思い浮かべてから、ため息を一つ吐いた。 (あいつの正直なところは良いことだと思うが、長く共に過ごした従兄弟に対して何か情のようなものは無いのか)  たしかに許靖は『腑抜け』と言われても仕方がない面がある。  ただ単に臆病でもあったが、人と争うことが極端に嫌いなのだ。幼いころから争いになりそうな状況を極力避け、もしそうなれば進んで負けるような子だった。  この点に関して許劭の評価は正しいが、厳しい。  ほとんどの人物鑑定家がそうだが、許劭の人物評価基準は『その人物と社会との関係』に重点を置かれる。  もう少し正確に言うと、 『この人物は、この世の中でどのようなことを成し遂げられるか』 といった事を常に念頭に置いているのだ。  そして、 『何かを成し遂げるのに闘争は必須である』 というのが許劭の持論だった。  結果、許劭の人物評において、争い事を徹底的に避ける許靖に高い評価が下ることはない。  それは仕方ないことだと思うし、許靖自身も反論するつもりはないが、それで生活が困窮しているという現実が目の前にある。  許靖を雇おうとした者たちは、 『人物評論家としては優秀だが、雇って何かを任せられるような人間ではない』 という認識を持って許劭の元を去るらしい。 (あいつは昔からああだ。憎む気にもならないが……)  普通なら腹の一つも立てていいところだが、許靖は生来そういう思考がない。許劭からすれば、むしろそのような所が評価できない所以(ゆえん)なのだが。  思案で腕が止まっていたせいか、馬が軽くいなないた。 「おお、すまない。お前には関係ないことだな」  そう馬に笑いかけてから、また忙しく藁を動かす。息を切らしながら一通り磨き終わると、最後に首筋に水をかけてやってから空を見上げた。 「天が高い」  抜けるような青空だった。  馬が、許靖の声に応えるようにまた小さくいなないた。その声が空の青さに吸い込まれ、どこまでも広がってくようだった。  季節は秋である。晩夏の名残りもすでに去り、吹く風が心地よい。  馬磨きは重労働ではあったが、嫌いではなかった。馬が好きなのだろう。この仕事に就くまでは、そんなこと思いもしなかった。  許靖は、馬の瞳を覗き込んだ。  瞳の奥に、地平線まで続く草原のような「天地」が見える。許靖はこれを見るたび、心の奥に吹き抜けるような心地よい風を感じた。  その風の流れを邪魔しないように接してやれば、馬の扱いに難渋することもなかった。  許靖は二十日ほど前から働いているのだが、もう二十年以上馬の世話をしているという上司から、 『熟練の調教師のようだ』 と褒められていた。 「そろそろ終いだな。道具を片付けたら上がっていいぞ」  かけられた声に振り向くと、その上司が一際大きな馬を引いて近づいて来た。 「陳覧(チンラン)さん。そちらはまた、立派な体格の馬ですね」  許靖に陳覧と呼ばれたのは浅黒い肌をした四十がらみの男で、郡役所の馬の世話全般を任されている長だった。  引き締まった身体と顔つきをしており、柔らかに緩んだ許靖とは対照的だ。 「こいつは太守の劉翊(リュウヨク)様の馬だ。さすがに堂々としたもんだろう」  陳覧は快活に笑った。並びの良い白い歯が、浅黒い肌に映える。 「だが、なかなか気難しい性格でな。俺以外にはちょっと任せられん。俺としては正直それが誇らしくもあるのだが、全体の管理をしなきゃならん身としてはそうとばかりも思っていられなくてな……」 「なるほど、お察しいたします」  確かに管理者としては、現場の仕事に時間を割いてばかりもいられないだろう。 「お察しいたします、ときたか。相変わらずお上品だな」  陳覧はそう言ってまた笑った。確かに馬磨きで生計を立てる人間にしては、場違いな育ちの良さだろう。 「この馬は気性が荒いという訳ではないのだが、ひどく相手を選ぶ馬でな。気に入らない人間には触らせようともしない。そして、大体の人間は気に入らないらしい」  陳覧は苦笑いしてから、ふと思いついたように許靖を見つめた。 「……許靖、お前ちょいとこの馬を撫でてみろ。撫でるだけでいい。どこでもいいぞ」 「……気に入らなければ触らせないのですよね?危険はないでしょうか?」  臆病な許靖は念を入れて確認した。  が、陳覧は何も言わず爽やかな笑顔を返すだけだった。 (立つ場所さえ気を付ければ怪我はしないだろうが……上司の命令だ)  許靖は仕方なく、おずおずと馬の斜め前に立った。そして、その瞳をじっと見つめる。  その瞳の奥には馬特有の広々とした「天地」が広がっていた。  だがこの馬は他と違い、その中心に透き通るような緑色をした大木が屹立している。それは葉も幹も緑碧玉(りょくへきぎょく)のように美しかったが、その美しさが孤高とも感じられるような、一種の近寄りがたさを感じさせるのだった。 (これは、ごまかしようのない馬だな)  直感的に、そう感じた。 (ただ一人の人間として、堂々と向き合わなければならない馬だ)  おそらく、この馬は何かを期待した(てら)いを敏感に感じ取る。威圧しても駄目、媚びても駄目なのだ。一個の生命、一個の存在として、真正面から向き合わなくてはならない。  許靖は自然と背筋を伸ばし、声をかけた。 「私は許靖という。お前の名前は?」  自然と出た言葉だったのだが、さすがに馬が答えられるわけもない。陳覧が答えた。 「(シュン)、という。劉翊様が名付けられたそうだ」 「峻……良い名だ。太守様はお前のことがよく分かっておられる」  そう言って、しばらく峻の瞳を見つめ続けた。  峻も、許靖を見つめ返す。  馬は賢い生き物だ。人間をどれも同じだなどとは決して思っていない。  相手を品定めし、好きにもなれば嫌いにもなる。小馬鹿にもするし、尊敬もする。  どのぐらいそうしていただろうか、許靖は峻の瞳が落ち着くのを待ってから、また声をかけた。 「峻、少し触ってもいいだろうか。陳覧さんから言われなくても、お前ほどの馬なら触れてみたい」  無論、峻は言葉では答えられないが、その代わりに少しだけ頭を下げて見せた。 「おお」  陳覧が感嘆の声をもらした。 「ありがとう」  許靖は優しく峻の鼻筋を撫でた。そして、そのまま首筋、背中の方へも手を伸ばす。  その様子を陳覧はしばらく腕組みしながら見ていたが、やがて、 「よし、明日から峻の世話はお前がやれ」 一つ手を打ってからそう言った。 「え……?た、太守様の馬でしょう?私はまだ入ってから二十日ほどしかたっておりません。もし何か粗相でもあったら……」  狼狽する許靖に、陳覧は有無を言わせぬ調子で答えた。 「仕事に早いも遅いもあるか。できる人間ができることをする。そして何かが成されていく。それ以外に、仕事というものがあるかよ」 「いや、しかし怪我でもさせたら……」  何かあれば、陳覧の責任も問われるだろう。それに頓着せずやらせてしまうのは、よほどのできる上司かよほどの粗忽(そこつ)ものだ。 「いきなり全部とは言わん。数日は俺も付く。それで大丈夫そうなら任せる」  許靖はなおも不安そうに唸りながら、しばらく陳覧の瞳を見つめていた。  許靖には、陳覧の瞳の奥にも「天地」が見える。  陳覧の「天地」の中では、まるで大河のような奔流がうねっていた。その上を一艘の船が走っている。上へ下へ、右へ左へ大きく揺らされながら、それでも転覆する素振りを全く見せず、堂々と激しい流れの中を進んでいた。  陳覧は南方の出だという。故郷にはこのような大河が流れているのかもしれない。 (これは、果断な人間の「天地」だ。実行力もある。だが一度本人がこうと決めてしまえば、何をどうしようとそれで決まりになってしまう人だな。抵抗しても無駄だろう……) 「……そうですか、ではお願いいたします」  許靖はあきらめてそう答えた。  このように、許靖は瞳の奥に「天地」を見る。それがこの男の持って生まれた能力だった。  瞳の奥の「天地」はすべからく、その人となりを映す。  許靖はこの二十数年で多くの人間に会い、多くの「天地」を見てきた。それで目さえ合わせれば、その人物の人格的傾向が大まかに分かるようになっているのだった。  これこそが世にその名を知られた月旦評を支えた力の一つだ。 (陳覧さんは一個の英雄になりうるような人だ。長とはいえ、馬の世話ではもったいないような方だが……)  人物評論などをしていたせいで、そのようなことを無意識に思ってしまう。  が、それも一介の馬磨きとなった今となっては詮ないことだ。  許靖からそんなことを思われているとは露とも思わない陳覧は、許靖の返事を当然というようにまたまぶしい笑顔を向けた。 「おう、そうか。では明日からよろしく頼むぞ。給金も、少しだが足しておいてやる」  それは正直助かった。現状の給金では控えめに言って貧乏生活しか送れない。 「ありがとうございます」  陳覧はそう頭を下げる許靖にうなずいてから背を向けかけたが、一つ思い出して振り返った。 「そうだ、お前の家は先割れの松の丘だったな」 「はい、そうですが」  先割れの松、とは許靖の家のそばにある松の老樹のことだ。  落雷にでも遭ったのか、てっぺんが裂けたように割れていた。どうやらその割れは樹の生存には影響がないようで、今も青々とした葉を茂らせている。  風変わりで雄大な姿がちょっとした名物になっていた。 「なんでも、脱獄犯があの辺りの山に逃げ込んだらしいぞ」 「脱獄犯……ですか」 「ああ。役所は今その話題でもちきりだ。なんでも結構な殺人犯らしいぞ。五人も全身なます斬りにした挙げ句、首を刎ねた上で、誰が誰だか分からなくなるほど岩で顔を潰したような奴らしい」 「…………ひぃっ」  言われたままの光景を想像してしまった許靖が、男とも思えない情けない声を上げた。  それを見た陳覧は、また快活な笑い声をあげながら去っていった。
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