第6話 恋

1/1
前へ
/392ページ
次へ

第6話 恋

 許靖(キョセイ)が馬磨きの仕事を始めてから、すでに半年が過ぎようとしていた。  その頃は秋の涼風が心地良かったが、今は春のそよ風が心を和ませてくれる。郡役所の厩舎のそばには桜の花も咲いていた。 (あの脱獄犯が逃げてから半年近いな……元気でいるだろうか)  許靖はそんなことを考えながら、(シュン)の巨大な馬体に桶で水をかけてやった。  半年前は腕を振るわせながら扱っていた水桶も、今はそれほど苦も無く持ち上げられる。  腕は多少太くなり、代わりに腹回りは引き締まった。ずいぶんと日焼けしたので、街で久しぶりに会った知人にはすぐに気づかれなかった。 (……といっても、いまだに同僚の中では一番華奢な体つきだろうな)  馬磨きは重労働なので、皆たくましい体つきをしている。  だが、それでも同僚の中に許靖のことをみくびる人間はいなかった。  長である陳覧(チンラン)を除き、許靖ほど(たく)みに馬を扱う人間はいないのだ。  現に最も重要な太守の馬である峻は、陳覧と許靖の二人以外にはまともに世話ができない。時には暴れられることもあるので、二人の手が空かない時には食事や水やり、厩舎の掃除といった最低限の管理だけにされていた。  職場では頼られているし、おかげで給金も多少上がっている。 (しかし、やはり馬磨きの給金では……)  一人が食べていくのには何とかなる。許靖は生来、物欲というものが薄くできているようであまり銭を使わない。 (父上が『嫁をもらって子供ができなければ銭の尊さは分からん』と言っていたが、その通りなのだろう)  許靖はまだ嫁ももらっていないし子供もできていないのだが、いざそのことを考えてあれこれ計算してみると、とてもではないが結婚など無理だと感じてしまう。 (相手が貧しい家庭で育っていればまだしも……)  許靖は残念ながら、この上なく高嶺の花を摘もうとしているのだ。  高嶺の花を摘もうと思えば、自らを高い所まで持って行かねばならない。現状では難しそうだった。  ため息をつく許靖へ、陳覧の陽気な声がかかった。 「おう、どうした?しょぼくれた顔をして。もしかして今日は王順(オウジュン)の店に行けないのか?」  からかう調子に少しだけムッとして答える。 「王順さんの店ですか。ちょっと筆が古くなったので見に行こうと考えていますが……」  許靖の言いように、陳覧は吹き出してしまった。 「おいおい、いい加減隠すこともないだろう。お前が王順の店の花琳(カリン)にぞっこんな事を知らない奴なんてもういないぞ。はっきりと会いに行くって言えばいいだろう」 「そんな……私の釣り合うような人ではありません」  許靖は顔を真っ赤にしてうつむいた。一介の馬磨きが大店の娘などと釣り合うはずがない。少なくとも、経済的には疑いようもなく釣り合わない。  陳覧は赤い顔を見てまたひとしきり笑い、許靖の尻をひっぱたいてやった。 「ほら、今日はこれで仕事終わりだ。峻もピカピカになったから、もういいってよ。店に行って顔を見せてやれ。向こうだって完全にその気だって噂だぞ」  おそらく顔だけでなく尻も赤くなっているだろう。  体が持ち上がるほど強く叩かれた尻をさすりながら、許靖は峻の手綱を引いた。馬の洗い場から峻専用の厩舎へ移動する。  厩舎そばの桜の前を通り過ぎる時、一枚の花びらがひらひらと落ちてきて許靖の鼻の上に止まった。 (私はあの日……桜の花吹雪に飲み込まれてしまってから、いまだに出てこられないでいるんだ)  その「天地」はあの日以来、目を閉じる度にまぶたの裏に浮かんでくるのだった。  舞い踊る花びらに囲われたあの桜の樹。力強く、しかしどこか儚い桜を思い出す度に胸が苦しくなった。そして同時に心の奥が温かくなってくる。 (本当にあの桜の「天地」から出られなくなればいいのに……)  そう願いつつも、今のまま馬磨きを続けるなら諦めなければならないという現実も分かっている。  分かっていながらも、若い足は今日もその桜のいる方へと向かってしまうのだった。 *************** 「お嬢様なら今日はまだお店へいらしてませんよ」  許靖は店の前を掃いていた小僧から、開口一番そう言われてしまった。いらっしゃいませ、ではない。 「え?いや……今日はちょっと筆を見にね……」  しどろもどろに答える許靖へ、まだ十代前半であろう小僧がにやりと笑った。 「はいはい、そうですか。筆は奥から二番目、一番右の棚ですよ」  仕事だから一応場所を教えてくれたが、まったく別の話を続ける。 「しかしね、私なんかから見ると許靖さんで十分だと思いますけどね。お嬢さんも今年で二十二だし……言っちゃあ悪いが行き遅れている。許靖さんは良い人だし、なんでも本当は有名人だっていうじゃないですか。上手くすればそれなりに稼げるでしょう?それにお嬢様だってどう見たって……」  と、そこまで言ったところでゴチン、と小僧の頭へげんこつが落とされた。 「こら、お客様に対してなんて言い様だ」 「だ、旦那様」  振り返ると、主人である王順が怖い顔をして立っている。 「し、失礼しましたぁ」  小僧はバタバタと(ほうき)を抱えて走り去って行った。  王順は今年で五十になる大店(おおだな)の主だ。  大柄で、花琳の長身はこの男から遺伝したのだろう。ただし、スラリと細い花琳とは違って王順はやや太り気味だった。  恰幅のいい腹を揺らして笑う様子は、商人に最も必要な愛嬌を多分に含んでいる。  その性格は気立てが良くて優しいと評判で、例えば年少の奉公人に対して怒った時でさえ先ほどのように優しめのげんこつ程度で済むことがほとんどだった。 「王順さん、こんにちは。良いお天気で」  許靖はそう言って頭を下げた。想い人の父親ということで、つい緊張してしまう。 「いらっしゃいませ、許靖様。うちのが失礼いたしました。筆……でしたかな?」 「あ、はい。すいません」  なぜか頭を下げる許靖に、王順は商人らしい笑顔を向けた。  許靖のこういった様子に、王順は好感を持っていた。優しく、謙虚な人柄がにじみ出ている。  商人だから人を見る目は養ってきたつもりだが、こういった人間を夫にすれば娘も幸せな夫婦生活を送れるだろう。 (()い男には違いないが……)  娘とのことは小芳(ショウホウ)から聞いていた。  脱獄犯を捕らえようとして知り合ったこと、それ以来許靖がよく店に買い物に来ること、それに合わせるように花琳がよく店へ出るようになったこと、そして花琳が許靖の近所に住む叔母の家に遊びに行く頻度が増え、その都度許靖の家に寄って土産を置いてくること、など。 (十日の内、二・三度は叔母の家に行くと言っていたな……三日続けて行っていたこともあったとか。叔母は寂しさが紛れて喜んでいるらしいが、多過ぎだ)  ちなみに許靖は三日に一度ぐらいの頻度で店に来るので、十日のうち半分程度顔を合わせている計算になる。  親ながら聞いていて恥ずかしいほどの若い二人だった。 (だが……親としては、想いばかりでは娘を任せられん)  それが正直な気持ちだった。  花琳は生まれながらに大店の娘として暮らしている。馬磨きの稼ぎでは同水準の生活どころか、最底辺の生活しかできないだろう。  花琳はそれでいいと思うかもしれないし、実際耐えられそうな骨のある娘ではある。  しかし、それでも若い人間が考えているほど生きていくのに銭は軽くない。そして何より親として、娘にそのような生活をさせるのは忍び難かった。 「月旦評(げったんひょう)の許靖か……」  聞こえるか聞こえないか程度の声でつぶやいた王順へ、許靖は振り向いた。 「呼ばれましたか?」 「いえ」  (少なくとも名声はあるのだ。ただの馬磨きで終わる男かどうか、今日は少し掘り下げてみよう)  しばらく思案していた王順は、予定していた商いの用事を思い切って変更することにした。 「許靖様。もしよろしければ、我が家の庭でお茶でもいかがですかな。娘もちょうど今は庭にいるはずです」
/392ページ

最初のコメントを投稿しよう!

162人が本棚に入れています
本棚に追加