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 沢山の蝶が小さな羽根を広げて、飛び立とうとしている姿が目に飛び込んできた。昼過ぎのホームセンターの入り口、露台に並べられた無数の小さな苗たちは、今が盛りの二歩ほど手前らしい。米粒のような蕾を無数に蓄え、その中にちらほら鮮やかな花弁が開いている。わたしはその片隅でふと足を止め、親指の爪ほどの、蝶と見紛う花を見下ろしたのだった。  以前、昔の恋人が残していったシクラメンを無残に枯らしたことを思い出す。それ以来、自分は植物を育てるには不向きな人間と、常にこのような場所は足早に通り過ぎてきた。結局その時は、元々必要だったものだけを買い求めて帰った。  だが、青い蝶が脳裏にちらついて、その数日後、スマートフォンで得た急ごしらえの知識と共に苗を一つと、植木鉢を一つ。抱えて自宅へ帰る途中は、不安と少しの期待がない交ぜになっていた。  休日に珍しく来客があった。職場の先輩でもあるその女性は、わたしの部屋に着くなり、ベランダでお茶でもしようと宣言し、こちらが返事をする前にベランダ側のカーテンを開けた。 「あら、このお花」  先輩が目を丸くしている。 「この間買ってきたんです。目が惹かれて」 「ふうん」  ぽつんと一つだけ小さな鉢植えが鎮座するベランダを、初夏の風が通り過ぎていく。気温は高くても風は少し冷たい。花はあれから順調に蕾をつけ、次々に開いている。  冷蔵庫を開けて、あ、と気づいた。ベランダにレジャーシートを広げる音に負けないよう、先輩に向かって少し声を張る。 「昨日クッキー焼いたんですけど、いります?」 「いるー」  お茶の準備を整え、わたしは薄い上着を羽織ってベランダに出た。  ちゃぶ台はベランダに出すには大きすぎるので、部屋とベランダの境目を半分ずつまたがせた。鉢植えを日向にずらしておく。 「のどかですねえ」 「ほんとにねえ」  折角だから、この間取り寄せたばかりの新茶と、春先にもらった桜の緑茶を同時に淹れる。酒を上回る贅沢。爽やかで、この陽気にきっと合うだろう。  マグカップを啜りながら皿に乗せた菓子に手を伸ばす。 「3年目かあ」  突然先輩が呟き、そうですね、と返した。  何をするでもなく、空を見上げる。  青い空に点々と雲が浮かんでいた。 「早いねえ」 「もう30です」 「え、それでも30なの」  わたしはふふ、と笑った。 「先輩、ご実家は大丈夫ですか」 「何、突然。今のところいつも通りみたいよ」 「それは良かった」 「こーちゃんのご家族はお元気?」 「今のところは元気みたいです。普通に出勤してるし」  テレワークに切り換えることが決定したとき、派遣社員の未来が決まったと思った。花を枯らすことが決まっていたことのように。  でもまだわたしは生きてテレワークで働いているし、日向に置いた花も日に日に花を咲かせている。  皆それぞれの事情を抱えて生きていて、その辛さは、幸せと同じで誰とも比べることはできない。わたしは幸運だが、今、悲しい思いをしている人がいると思うと、わたしのような人間の状況からすればやるせなさが湧き上がる。 「それにしても部屋が隣で、しかも同じ職場だって分かったときはびっくりしたわ」 「ほんとに。帰るタイミングが重ならなかったら、ずっと気づかないままだったかもですね」 「それはそれで笑えるわね。ねえ、お節介かもしれないんだけど」  美代子さんは頬杖を突きながらわたしを見た。 「何ですか」 「このこ、母の日にあげてもいいけど誤解されないようにね」 「母の日?誰かにあげる予定はありませんけど」  わたしは首を傾げる。 「このこ、こんな可憐ななりして、確か『悪意』っていう花言葉があるのよ。他の言葉もあるだろうけど」 「えっ、知らなかった」  わたしはただただ驚いて、風にそよぐ小さな花の群れをじっと見つめた。  それは、何だか花がかわいそうな気がする。調べてみたら、有毒で、たばこなどの原料に使われることがあるらしく、それが由来となっているようだ。まあでもそんな事情は人間に通じるものでしかなく、花にとっては知ったことではないだろう。小さい子が口に入れようとしていたら止めるべきだろうが、それは花に限ったことではない。 「逆に魅力的じゃないですか?そのギャップが」 「そう考えるところがこうちゃんのいいところよね」  そういうの好きよ、と囁く唇に悪意がないなどと誰に分かるだろうか。  ロベリアはわたし達の会話などどこ吹く風と、瑠璃色の羽根を広げてただ太陽を見上げている。 ***終わり*** 895c5f0b-daf2-4298-b2c6-c7cbc730f5ed
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