二十四日・夜

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 その人を見送って施錠した後、椎名さんがふと扉のほうへ視線を向けた。 「あたし、あのお客さんが来るの、いつも楽しみなんだよね」 「え…………」  てっきり「いつも閉店間際に来やがって」と吐き捨てるのかと思えば、椎名さんの口から零れるのは意外なほどにやわらかな声音だった。  胸が逸る。  まさか、人間嫌いを公言する椎名さんが、そんなことを言うなんて。 「給料日前を実感してテンション上がる……どうしたの?」 「い、いえ……ごめんなさい」  わたしはあの人のことが好きなのかもしれない。  不意に閃く雷光のように浮かび上がった、恋、という文字が胸を突いて、わたしは動揺した。  好き? だってわたしは、あの人の名前すらも知らないのに。  年齢も、職業も、どこに住んでいるのかも。  知っているのはただ一つ、毎月二十四日に十五本の白薔薇を買いに来るということだけだ。 「椎名さんは、あのお客様とお話したことありますか?」 「いや、ないな。たぶん綾瀬さんだけじゃない、話したことあるの」  夜のシフトに入るのは基本的に椎名さんとわたしだけだ。 「そういやあのお客さん、なんで十五本の薔薇なんだろうね。あんまいい意味じゃなかった気がするけど」 「それは……」  わたしが言い淀むと、椎名さんが眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。 「…………もしかして、なんも訊いてないの?」 「すみません……」  わたしは視線を落とした。誰から誰へ、なんのために贈るのか。花を通してお客様の思いを表現することがわたしたちの役目だ。植物に象徴的な意味を持たせるための花言葉も、そのためにあるのだろう。  それなのにわたしは、自分の仕事をまっとうできずにいる。 「コルチカムの二の舞になるつもり?」  レンズ越しにわたしを見る椎名さんの目は氷のように冷たい。サフランによく似た花を咲かせたコルチカムと同じようにわたしを責め立てている。 「男は花言葉なんかあんまり気にしてないと思うけど、こういうのは貰ったほうがどう思うかが大事なんだからさ。過ちから学ばないと、いつまでたっても花は咲かないよ」 「はい……すみません」  いたたまれずに視線を逸らしたいのを堪えていると、椎名さんの眼差しがふっとやわらいだ。 「まあ、次来たとき訊いてみたらいいんじゃない」  椎名さんは、それも仕事のうちだしね、と続け、閉店作業へと戻っていった。 「はい……」  わたしは消え入りそうな声で返事をし、レジの精算を始めた。
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