サクラノエニシ

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サクラノエニシ

その一 猫語の効用 今日は、三月初旬の晴れた日曜日。 お城のお堀端を取り囲む、ソメイヨシノの枝先も赤く染まり、やがて訪れる春の予感に訳もなく浮き浮きするようなお天気なのだが、ケンモチ先生には、平日も休日も関係ないらしい。 朝の8時からもうこの同人誌「サクラノエニシ」研究室でデスクトップのパソコンの前に座っていた。 最も、年代物のつぎの当たった牛首紬の座布団を敷いた座椅子の上で、足を組み、ベニヤ板に水色のペンキを塗っただけの天井を眺めながら自分で入れた加賀棒茶を、ただズズズッーと飲んでいるだけで、パソコンに電源も入れていない。 ここは研究室とは名ばかりのそれでもK大学の敷地の一角にある狭い仮事務所の様な建物で、玄関の引き戸の辺りにはぺんぺん草が生えている。 余りの古さと言うか、オンボロなのでただ同然の安い値段で、ケンモチ先生が何やらよく分からないツテを見つけてきて事務所としてK市から借りているのだ。 キナコも家にいて、三月中旬に予定されている「サクラノエニシ」の最終締め切りに間に合わせるべく、ねじり鉢巻で短編小説を書いていたのだが、行き詰まり(なんて、カッコ付けて言うものの、毎回最初から行き詰まりっ放しが普通の状態で、そればかりか、金銭的にも行き詰まり、ボーイフレンドも三十年来の壊滅状態、行く当てもないので)朝からこの研究室に来ているのだ。 ガラガラ、ゴソゴソと立て付けの悪いガラス戸を開ける音がして、春風と共に爽やかな様子・・・・・・とは程遠い不景気な顔つきでタケダさんが入って来た。   いつもの様に、紺色の運動服を着てガタイの良い介護ヘルパーさんのようなスタイルだが、某有名進学校の古典の先生なのだ。 「アラ〜、二人ともこんな天気のいい日に何だってこんなとこにいるんですか?甲らに、カビ生えて来ますよ」 そんな事言う自分だって、なんで朝からこんな所に来るのだ? 「朝から、奥さんとケンカしちゃって逃げ出して来たんですよ。オレ全く女の気持ちが分からん!」 生徒には、源氏物語に登場する姫君達について格調高い講義をしているわりには、肝心の自分の奥さんの気持ちが分からず、逆鱗に触れてばかりいるらしい。 「タケダ君、君のその日本語に問題があるのだよ」 ケンモチ先生に国語力の不調を指摘されたと思ったらしく、タケダさんは古典の研究者としてのプライドをいたく傷付けられた様子で憮然とした表情だ。 そんな空気など全く読めないキナコが「先生、それ、ドユイミデスカ?」と、また要らないところで口を挟む。 「『それはどういう、意味ですか?』と聞きなさい。更に『それはどのような意味ですか?』と言えばさらにグッド!」ケンモチ先生は、キナコの日本語にこまめに指導を入れる、赤ペン先生でもある。 「まあ、日本語って理論的な表現にはあまり向いてないですからねえ。情緒的というか・・・主語もきちんと使わないし、定冠詞もないし」とタケダさん。 「そういう、次元の問題じゃない」とケンモチ先生は如何にも聡明な目つきでタケダさんを見ながら長い足を組み替える。 「つまり、なんですか?このご時世を先取りして英語でケンカしろと、まあ文科省も英語教育にはきょうび力を入れてますしねぇ。でも、うちの奥さん英文科卒なんですよ。オレ敵わないっすよ。古語なら勝てるかも知れないけど・・・吉原風ありんす言葉でもいいけど亭主のオレが花魁言葉なんて情けない・・・」 ケンモチ先生はやれやれという顔でタケダさんを見ながら「タケダ君の場合、一番いいのは猫語をマスターすることだな」と真面目な顔をする。 タケダさんの目が宙を泳ぎ、「ドユイミ?」と、再びキナコが口を挟む。 「これはワシが、長年の研究結果を論文にして、発表しようかと思うぐらいの濃い内容で、自ら身を呈しての人体実験もしておる。何回も殺されかけた。種痘の父ジェンナーの研究にも匹敵する、命がけの研究とも言える」 「ほう〜、アメリカのナサのような政府研究機関が極秘でやっているような、なにですかねぇ〜」とタケダさんは学者らしく、明敏な眉を上げて興味津々な顔をする。 「まず、最も肝心なのは姿勢である」と先生が、座椅子の上に座り直してまずお手本を示す。先生はお年のわりには、若い頃から剣道で鍛え上げた体幹のせいで姿勢が良く、正座する姿にも風格がある。 「姿勢と呼吸は大事とヨガでも言いますからねぇ」とキナコも、先生に習って、床に座り姿勢を正す。 「まず、このように正座する。丹田に力を込め、肩の力を抜く、鼻からゆっくり息をする。気持ちが落ち着いてくるであろう。その姿勢と気持ちが整ったら、顔をやや下方向、右斜め四五度に傾けて、前足を揃え・・・」 「前足・・・ですか?」タケダさんが、更に怪訝な顔をする。 「気持ちの持ち方を言っておる」と、愛弟子に剣術の奥義を伝授するかのように先生は懇切丁寧に説明する。 「はぁ・・・」 「そして、心の底から反省の気持ちを込めて『ニャゴ〜』と愛らしく謝る」 「・・・・・・」 タケダさんは憮然とした面持ちのまま、帰ってしまった。 「タケダはまだ修行道半ばだからな、当分『ニャゴ〜』で初歩をマスターするしかないな。男子として生まれて来たからには、嫁というのが人生最大の試練であり、その難関を越えた男だけが次の世代に遺伝子を残せるのだ。まあ、キナコ君にもおいおい分かる事もある。理屈理論だけでは、これは越せない大きな山なのだ。タケダには、それが出来るようになったら、次の段階、仲直りの『ニャゴ、ニャゴ、ニャゴ〜』を伝授してやろう。一は二に至らず、二は三に至らずと言うからねぇ」先生は、一人でニヤニヤしている。 猫語に、いったいどんな効用があるのか?と意味不明な顔付きをしているキナコに、ケンモチ先生は更に補足説明をする。 「あんなに頭が切れて弁の立つ夫婦が本気で口論したらどうなると思う?まるで検事と弁護士の法廷論争さながらの修羅場になるのが目に見えているじゃろう。そう言う時は男らしくゴチャゴチャ日本語で言い訳などせず猫語で謝るのが最も賢明な方法なのだ。ほれ、あのミッドウェー海戦の敗戦時、帝国日本軍がいち早く停戦交渉をしていれば本土空襲も沖縄戦も、広島、長崎への原爆投下も無く、三百万人の死者を出さなくても済んだかも知れないのだよ。負け方にも高度な、知性と技が必要なのだ」 「・・・・・・」 キナコの細やかな脳味噌ではケンモチ先生の話の半分もわからない。だいたいがタケダさんちの夫婦喧嘩の話がどうしてミッドウェー海戦の話に結び付くのか? しかしここで下手な質問などすれば「キナコ君、君は日本語だけでなく、もっと歴史の勉強もせねばなりませぬぞ」と更にお説教されそうなので、判らぬながらもいたく感心したふりをして、前足を揃え「ニャゴ!」と返事した。
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