花言葉は訊かなかった

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花言葉は訊かなかった

 トシの部屋には花がない。  都市生活の傀儡に透明なピアノ線が聞いたことのない音符を探して狭い空を伸び続けている。陽光に照らされて、ステルス戦闘機のコックピットから目視の合図を貰っても、人の口を怖がることもせずに。 ――ピアノ、弾けたら良かったよね。  サクヤはトシの均一に統率の行き届いた背中に敬礼をして、言った。 ――なら、弾けよ。  複数のモニターに左右の目を走らせて、上下する指標を人を乗せないエレベーターのように侮蔑しながら、トシは背中にいるサクヤに返事をする。 ――知っているくせに。  サクヤは敬礼を脱力させて自由に落下させる。直立した姿勢のままで床まで落ちない自分の右手を不思議そうにみている。ニュートンは偉い、と心の中で不思議を払うおまじないを唱えてみても、右手はそこにあった。 ――お前は、今と過去の自分を愛で過ぎているんだ。変化した先の自分を愛することのできる幅にトキメキを感じなければ、未来は遠いぞ。  カタカタとモニターをみながらキーをタイプして、 ――僕にとっちゃ、これもピアノだ。  と、トシはカデンツァに突入するピアニストのように殺気立った雰囲気を背中に振りまいていた。 ――叩いて、音が鳴る。うん。ピアノだね。  サクヤはずっと頭に乗っけていた青リンゴをジャンプして落下させた。リンゴが絶叫を上げる前に、軸を咥えて「イヒ」っと笑う。 ――な、わけないだろう。これはノートパソコンのキーボードだ。ホールでこんなもの叩いてお客様がスタンディングで拍手を贈るのか?  トシは背中の出来事に無関心を装っている。バスクシャツからみえる艶めかしい鎖骨が空調を切り裂いても。  ――そんな時代も来るかもしれない。じゃない。 ――来るものか、僕が阻止してやる。来たとて。 ――なんでも出来るんだな、君は。 ――お前が、なんにも出来ないからだ。こうなってしまったのは。 ――違うよ。もう、なんでも出来てた。忘れたのか。 ――あーあー。そうだよ。  サクヤがリンゴの軸を咥えたままむぐむぐ言う言葉を全て耳で正しい言葉に変換して、トシは作業を続けている。  サクヤは満足したように聖火を灯す時はこっちにしようと密かに予約をしてある左手で青リンゴを掴むと、バシャリと噛みついた。世紀末開始の合図のように、世界の裂け目が姿を出す。切れた口角の血がカラフルのお裾分けとして裂け目を彩っていた。 ――まだ、作業終わらない?  モゴモゴ。サクヤの口の中で、青リンゴの思い出キャパの広い芳香が品行に果実の行方を見守っていた。 ――なんだ。イクのか。 ――そのつもりだ。  サクヤはトシの肩に羽を閉じて止まる。鎖骨を撫でて、 ――バイオリンも弾けるといいよね。  とトシの耳たぶを懐柔するように甘い声で言った。 ――気色が悪い。  乱暴にサクヤを振り払うと、トシはフローリングの床を左足つま先で、トーンと蹴って椅子ごとスライドする。サクヤはその場に正座をした。前をはだけたネルシャツの隙間から自分の乳首を、親指の爪で数回、こそぐ。  んああん。  トーン。  トシがまた床を蹴って元の位置に戻って来る。 ――わかった。終わりにするよ。  行儀良く羽を閉じているサクヤを、標本にするのはしのびない。せめて虫取り網、いやぁ、それも無粋。麦わら帽子、は、持っていないな。と、グルグルめぐる思考を停止して、トシはパソコンを落とした。 ――良かったの?   サクヤは自分でもあざといと頬に悪魔を二匹飼う。 ――ふん、世田谷に一軒家買えるぐらいの儲けを、お前のために損した。  トシはリモコンで空調の温度を三度下げて、クローゼットに立っていくと、冬のコートを着てサクヤの隣に膝抱えて座った。 ――それは、大変な損失。どーしよう。  サクヤは青リンゴを猛スピードで齧り尽しながら、モヒャモヒャ言った。勿論トシの耳は正確に変換する。  一口。軸付近、肩が張ったようなそこを残しておいて、 ――ん。  とトシに押し付けた。 ――ん。  トシは残りを齧りとる。 ――うん。よし。  サクヤはリンゴの芯をクルクル器用に鼻の上で回転させながら部屋を出て行った。ドアは開けたまま、自分の部屋を経由して、一冊の本を携え帰って来る。 ――昨日の夜、よっぽど起こそうかと思ったんだ。  目を夕日に波立つ海面のように輝かせ、サクヤは言った。 ――僕は、寝起きだけは人を殺せるぞ、と、言ってるだろう。 ――うん。それは覚えていた。おっかない言葉は大抵忘れるのに。 ――賢明だ。  トシは抱えた膝に顔を埋めるように、いる。栗色の髪の毛から尖った耳が約束の品、みたいにいる。  サクヤはトシの後頭部を拳でノックすると、トシの隣に正座をする。と、ベタリ。足を正座に畳んだままで仰向けに寝た。ノックされたトシはサクヤから本を受け取ると、運に任せて開く。 ――少年は路地に初めて迷い込んだように、歩く速度を落とした。  開いたページの頭から朗読する。 ――そう、そこ、だ。 ――やっぱり、か。ゾっとする。 ――いいねぇ、ゾっ。ゾっ、ゾゾっ。  サクヤは目を閉じて。肺を殺していた。部屋の空気がサクヤにむぎゅうっと暴力的に吸引されて、質量がうっかり音色になった。 ――ポルターガイストのラップ音。あの動画再生回数伸びなかったぞ。 ――本物は大勢を寄せない、ものだ。 ――わかりにくい。  トシはサクヤの変容せずに段階を踏んでいるかのような違和感のない誤動作をみながら、回想する。サクヤと二人で生活するようになった初めの頃のことを。 ――僕はなんでもできる。その反対がお前だ。一人じゃ生活もできない。金も稼げない、バイトすら続かないでお袋さんのパートで食わされている。しかも、そのことに情けなさも感じていない。  トシはサクヤを自分のマンションに呼び出して説教をしていた。 ――その歳で一人の生活を求めることもできない、お前は、人として劣っているんだ。  本当はただその日、トシはかつての友達を歓待するつもりでいたのに。僕は株の天才だ。人の流れを風呂場で湯水操作するように把握できる。今、買って、今、売って。資産は絵描き歌も追いつかない速度でゼロを増やしていった。どうだ、この歳でタワーマンションの3LDKだ。週に一度清掃も頼んでる、ちょっとした成功自慢をしたかっただけだ。  しかし、中学卒業以来に会った友達が腑抜けに成り下がっていたことに顎を外してトシは言葉を怒りに先行させた。 ――人ってのは、人に真似できないことを一個や二個できるもんだ。そいつをさっさかみつけて磨く。人生なんてそれだけなんだ。お前にもあったはずだ。それを探すことをさぼった挙句、ぼんやりうっかり死にかけ人間やりやがって。  自分の言葉が過剰に友人を滅多刺すことが、途中から快感に変わっていた。 ――お前は、ここにいる資格がない。よく床が抜けないな。  サクヤは応えもしなかった。 ――なんとか、言え。  促されて、ようやく、言葉を返した。にわかに降り出した大粒の雹のように清潔な塊としてサクヤの言葉はトシの部屋に降り注いだ。 ――僕にもし、君には決してこれからも永遠にできもしない能力があったとしたら? ――ない。  ゼロの距離で顔を押し付けるようにして来たサクヤを体仰け反らせて避けながら、トシは威勢を崩さず、言った。 ――あるわけがない。あれば、そうはなっていない。 ――もしも、僕にそれができたら?  サクヤは自重を憑き物に預けて浮遊しているように勝ち誇って言った。 ――お前が望むものをやろう。 ――やったぁ。  やったぁ。  その響きに、トシは聞き覚えがあった。なぜ、中学卒業以来十年以上の時を隔てて、サクヤのことを思い出したのか。  あれは美術室だった。業間の十分。学校に持ってきてはいけない小さなゲーム機で遊んでいたトシに、僕にも貸してくれないか、と話しかけてきた他クラスのサクヤ。 ――ああ、いいよ。  名前も浮かばないほど目立たなかったそいつがなぜ自分に話しかけてきたのか、素直に興味を持ったトシはゲーム機を手渡してやりながら、耳に独特な未生物を飼うことになった。 ――やったぁ。  中学にもなって、そんな無邪気な声色があっていいものか。呆れにも似た思慕が名も知れない花の蕾を開かせたのだ。  なんてこった。  トシはため息をついた。  あのままだ、こいつは、オギャアのように声を使う。  自分が消化してきた時間の波が、破裂しない風船になって取り囲んでくるような錯覚に、トシは身震いした。 ――お前に、なにができるってんだよ。  サクヤの胸を突いて、言い捨てた。 ――僕は、イクのが得意だ。  サクヤは自分の乳首を親指でこそいで、そう言った。 ――んじゃぁ、イって来る。 ――ああ。  返事をして、トシはサクヤの眼前に本をかざした。  ん、あああ。  幾度かの見栄を切るような大きな痙攣が体を上下させ、サクヤは眼球を回転させている。証拠に瞼がぐぐぽこぐぐぽこ、涙の気泡を弾けさせている。  ん、あああああ。  部屋を質量ごと吸い込んでは吐き、太平洋はミリ単位で波を引き、月はセンチ単位で地球ににじり寄った。  んんん、あああああああああ。 ――気色の悪い奴だ。  サクヤはこうして、創作世界にイク。  性的なそれと双生児ほど酷似した快感を伴って、越えてはいけないラインを越える。その向こうで、サクヤは創作世界に存在し得た自分を自在にペンとなって文章となって泳ぐのだ。そして、ポケットでトシと交信をする。  サクヤの右手が破れたポケットに突っ込まれてある。  トシの右手もまた、コートのポケットに突っ込まれている。切り破いてあるから自分の体に触れるはずだった。けれど。  トシの手はサクヤの手に、触れる。 ――手と手ってやつは、双方向で伸ばして一個に結ばれるもんだと思ってた。一方がろくろっ手とは、いやはや。  サクヤがパンツの中で触れるはずだった男性器は、イってしまった事後には無用の物として存在をくらましていたから、余った空間が寝ぼけている。そこを、よよいの手品でハンカチを揉み込んで。鳩は飛ばない。飛ぶのは異次元空間で白く濁った液体だけ。  んん、あああああああああああああああああああああああああ。 ――少年は招かれたアパルトマンの一室で、レモネードをご馳走になる。  トシは本のページを暗唱して、これのどこがイケるのか首を捻った。サクヤのイク創作世界の基準が未だに掴めない。  んんん、あああああああああああああああああ。  サクヤは身をよじって、空っぽを拒み続けていた。 ――そんな簡単なこともわからないのか。タワーマンションの3LDKに住んで親に仕送りをしている人間が。  創作世界にイったサクヤは自身の性質を上手くコントロールできずにトシをなじることもするし、世界を手放しで絶賛することもあれば、涙の色が気に入らないと返品することもあった。 ――書いてるときに書き手がイってるからに決まってんだろう。二人以上で直接足してイクのに慣れてるとわかねーのかプリンスメロン頭が。手と手は二本で結ぶもんだけどなぁ、伸ばしあわなくても、ろくろっ手で自分の首も絞められラララだ。  書き手がイマジネーション世界に組み上げた創作世界に、侵入者となって快感に抗うことが、サクヤにできた特異なことであった。  誰もいない学校や美術館の鍵を手に入れたような喜びに、サクヤは一人で何度もイった。射精に至るはずの性器が異次元でどんぱぱしているうちに、快感打点をもんどりリップサービス。無数の青痣が唇型に人を形どっていく。次の命の器はあれをどうぞと、神様に贈呈した。 ――ふひゃはや。  サクヤは少年がアパルトマンに消えた路地で、迷子の愉悦を諭している。ベビーシッターのパートタイマーみたいに。  創作世界に書かれることのなかったキャラクター達と会話を交わし、懐いてくる猫を撫でた。  望めば、世界がサクヤの望みに沿って拡大する。書き手はもう、自分が産んだ世界の繁殖スピードに鈍感だ。 ――どうして、書き手は世界を閉じない? 馬鹿かトシ。閉じていないから侵入可能なんじゃないか。閉じることができたら? 世界が終わるんだ。バーカ。  駆け上がった路地の階段が低い空に繋がっている。  群青色の空が、真白の雲を薄くちぎって、花のように咲かせている。 ――この雲にしよう。  サクヤは右手を抜けたポケットに突っこんだまま、左手で雲を絡めとると、来た階段を後ろ走りで駆け下りた。街が全部でサクヤをみていた。 ――お兄ちゃん。  空から落ちた囲いのような高い壁に貼りついた窓が開いて、少女が声をかけてくる。 ――なんだろう?  サクヤは抜けたポケットの奥でトシの手をくくっと握った。もうすぐだ。構えておけ、と言うように。  窓の少女は言った。いい雲ね。それ。 ――だろう?  サクヤは左腕を高く上げてみせる。 ――交換して欲しいわ。  窓の少女は両の掌に、なにかを持っている。  サクヤは下から見上げても、様子の知れないなにかを、望んだ。  創作世界で、主人公の少年が別の窓からサクヤを発見する。 ――おせーんだよ。  サクヤはイク。  左手の雲を少女に放った。  世界が揺れ始める。  窓の少女が、 ――ありがとう。  と、頭上にフワフワしながらゆっくり落ちてくる雲の塊を待たせておいて、サクヤにお礼を落っことした。  瞬間、サクヤの右手がそれを掴んだら、世界が崩落して瓦礫が舞い上がり、天と地は仲良く地獄と変化を遂げる。 ――ひやはは。  突っ込んだ破れポケットの奥で、サクヤはトシに訊ねる。 ――ある? ――ある。  トシから手の返事がある。 ――うん。良し。  サクヤはポケットの中で一度トシの手を握り、勢い良く手を引っこ抜いた。  創作世界が平穏そのものに我に返り、路地を行き交う人たちは微笑んで挨拶を交わし、猫はお婆さんを好んでついて行く。魂を落としそうだと、しめしめ髭を撫でながら。  主人公は窓になにをみていたのか、すっかり忘れてレモネードだ。  サクヤは、一層、イク。やった。盗んだ。創作世界にろくろっ手で盗んでやった。書き手の目のない増殖した物語を。絡まった鼓動で、盗んでやった。意識が朦朧とするほどの行き過ぎた快楽が、サクヤの肉体を奪い去っていく。 ――お帰り。 ――うん。  サクヤはただいま、と言ったことがない。ただいま、は怖い言葉だと勝手に感じていた。  はだけた胸を正座仰向けのまま、自分で撫でる。骨の隙間にめり込んだ記憶が、ゆっくりと窓の少女に雲となって落下した。 ――ナイスキャッチ。  そいつは金魚鉢で飼うといいぜ。  サクヤは飲み干してしまった世界を残念そうにぼんやりする。  ん、ああ。  それでもまだ、乳首をこそいでは、ほどける快楽に身をよじった。ラインの向こうがサクヤをまだしがんでいる。 ――今回のは種、だ。 ――ふ、うん。  種が、なんのことだかまだサクヤの世界が日常の模に組まれない。 ――きっと新種の花が咲くな。  トシは嬉しそうだ。暑苦しかったコートを脱げたから。自分の手の中に異世界の種があることはそれほどにも感じないで。三粒の黒より黒い歪な多角形を掌で遊ばせていた。 ――新種の、花。  サクヤが質量の吸引から、酸素抽出の呼吸に戻して、焦点の合った瞳を天井に穿つ。 ――新種の、花には、名前を付けよう。申請して登録して、なんとかして儲けよう。 ――やめとけよ。お前には、過ぎたことだ。どうせ、なんにもみえてやいないんだろう。  トシに言われて、サクヤは体をうつ伏せによじった。 ――そうだね。僕にはできそうもない。 ――そうだそうだ。お前のできることはこれだけだ。しかし、僕とお前にはこれで十分だ。僕は鉢を買って来るよ。花が咲いたら、二人で名前を付けて、動画に上げよう。ラップ音のあれよりは再生されるかもしれない。新種だって騒いでもらえたなら、僕がお前に代わってその花で儲けてやるさ。種苗法なんて言葉もお前は知らないだろう?  正しくことの在り様を言葉に分解して語るトシに、サクヤはうつ伏せで身をよじり続ける。 ――もう、そこにはあるんだろ? またイっちまうぞ。 ――うるさいよ。  サクヤはゴロンっと仰向けになった。 ――もし、それが花の新種なら、花言葉を考えなければ。 ――いいよ。それぐらい、お前に考える権利をやる。 ――いや、違う。それは違う、な。花は向こうにある。花言葉もあるはずだ、訊いて来なかった。それが落ち度だ。だから、花言葉はいらない。忘れてくれ。 ――賑やかな奴だ。まだハイなんだな。ところで、お前は花言葉を幾つ知ってる?  トシがサクヤを覗きこんで言った。  サクヤは目を閉じて、 ――ひとつも。  と言う。  トシはピタピタとサクヤの肌を叩いて、 ――僕はたくさん知ってるぜ。  と言った。 ――母さんが飴って言ったら花のくちづけをくれたんだ。一個一個に全部花言葉が書いてあった。 ――そんな飴ない。 ――あるんだよ。 ――僕の世界には、ない。 ――あるんだ。お前と花のくちづけは同一世界にのみ存在を許されている。どっちかだけでは存在しない。残念ながら。 ――なるほど、こういうことか。書き手は僕を書いたつもりはない、しかし、そこに僕はいる。世界にはすべてがある。  ピタピタ。トシはピアノを弾くようにサクヤの体を指で叩き続けた。透明なピアノ線が一本、空と繋がって、錆びる。 ――僕の世界で飴って言えば、バターボールだった。 ――あれも美味いな。 ――両方知ってるんだ。トシは。  サクヤがうらめしそうに自分の顔を覆って呟く。 ――意地悪をしないで、こんな花言葉がある。これはなんの花言葉だと思う。もし三分以内に正解を出せたら、なんでもしてやるよ。 ――もう、他になにもいらないけど、クイズは好きだ。チューリップ。 ――ぶー。  っと、トシがサクヤの頭を撫でる。 ――コスモス。桔梗……、あ!! サボテン!! ――ぶぶぶー。  花の名前を思い出せるだけ思い出して、サクヤは三分後にもう一度思った。  花言葉は、訊いて来なかったな。                 
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