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ひと月ほど過ぎ、川沿いの並木もすっかり青々とした葉桜へと装いを変えたころ、菜々美は再びあの花屋を訪れた。この一か月いつもと同じ道を通って通勤していたはずだが、花屋には一度も立ち寄っていなかった。
ただ、この一か月はこの店が消えたり現れたりということは無かった。店主がウインドウの外に鉢植えを並べ、水をやっているときなど、お互い軽く挨拶を交わして通り過ぎることもあった。だが、店の中に入るのは実に一か月ぶりだった。菜々美は落ち着いた足取りでドアを引いて開けると、カウンターにエリカの鉢植えを置いた。
「これ、せっかくいただいたけどお返しするわ。」
「どうかしましたか。」
「だってやっぱり、お金も払わずにもらうことなんてできないわよ。」
店主は、言葉とは裏腹にあなたがそれを持ってくることはなんとなく分かっていましたよ、という風な表情をしながら、壊れ物でも取り扱うかのように切り花をカウンターに置き、茎の部分を鋏で切りそろえた。エリカの鉢植えには見向きもしようとしない。
「ねえ、あなた友達はいる?」
その質問をすると思っていました、というような感じで店主は落ち着いて答えた。
「ええ、あまり自慢できるような友達ばかりじゃありませんが。」
「そう・・・。」
二人の間に心地よくも気まずくもない複雑な沈黙が流れた。唐突に菜々美は切り出した。自分でもなぜこんな話をするのか、驚いていた。
「あのね大学の時、私の友人が一人死んじゃったの。」
「それは、お気の毒に。」
「親友ってほどじゃなかったけど。それでも、仲良しだったわ。」
「さぞ、お辛いことでしょう。」
店主は、まるで天気の話でもしているかのように、あっさりと受け答え、オレンジの包装紙と透明のセロハンをカウンターの下から取り出し、黄金のバランスになるよう、切り花をクルクルとまとめ始めた。菜々美はその飄々とした態度が気に食わなかったが、我慢して話を続けた。
「それでもね、会社にはいかなきゃいけないし、ご飯も食べれば美味しいし、彼の腕で寝るときはすごく満たされた気分になるのよ。」
「私、気づいたのよ。あの子が死んでもあの子のご両親は働きに出るし、あの子の兄妹は学校に行くだろうし、親友も彼と結婚するし、アフリカでは子どもが飢えてるし、アマゾンは小さくなって、アメリカの金持ちはエイズワクチン開発に莫大な寄付をしてる。世の中ってのは続いていくんだわ。」
「おっしゃる通りだと思いますよ。」
店主は、オレンジ色の包装紙に合う、レモンイエローのリボンをカウンターから出し、かなり長めにカットした。菜々美は声を張り上げた。こんなに近くにいるのに、まるで自分の言うことに関心が無いかのようだ。
「それでね、私思うのよ。死んだら周りの人が悲しむからって言うけど、そうじゃない。死んでも結局は何も変わらないんだわ。」
「お言葉ですが、あなたはそのご友人の死によって変わったのではないでしょうか。」
「いいえ、何も変わっちゃいないわ。あの子が生きていても死んでいても今の生活は変わらないわ。死んでも家族も友人も世界も何も変わらないのよ。」
店主は黙って、イエローのリボンを何度も巻き取り、癖をつけ始めた。
「死んでも何も変わらない。でもね、生きていれば絶対に何かを変えられるわ。だから、生きなきゃいけないの。周りの人が悲しむからじゃない。自分の人生を世界を少しでも変えるために生きなくちゃいけないのよ。」
「面白いご意見ですね。」
花束を持ち上げ、イエローのリボンを巻き付けていく様子を菜々美はじっと見ていた。
「ねえ、あなたはどうか分からないけど。なぜだか、すごく人生が寂しくなることってない?」
「僕は、残念ながらありませんね。寂しがっているどころではないので。」
「・・・そう。」
出来上がった花束は、午後の陽光と紅茶に入れる一さじのはちみつを形にしたかのようだった。
「私はね、あるの。私、別にお母さんに無視されたとか、お父さんに性的虐待を受けたとかなんてことはないのよ。連絡を取れる友達もいるし、彼氏もいる。仕事だって上手くいってるの。」
「それは、喜ばしいことですね。」
「でもね、なぜだかすごく寂しくなる時があるの。私には誰もいないし、私には何もないんだって思ってしまうときがあるの。みんな、いつか私を通り過ぎていく。死んじゃった友達みたいに。昔の友達みたいに、今いる人もみんな私を通り過ぎていっちゃうの。」
一度しゃべり出すと、せき止めていたダムが決壊したかのように、次から次へとことば があふれ出てきた。
「行く先々で、私にとって大切な人ができる。でも、次の場所に行ったとき、いつの間にかその大切な人が遠ざかっているのを感じるの。そして、きっと相手も私のことをそう思てる。もう、人生の表舞台からは遠ざかった過去の亡霊みたいな人だって。もう、半分他人のようにお互いなってしまう。友達が死んだとき、最初はすごく悲しかった。夜、寝るときに一人で泣いたわ。彼女の声、彼女の笑った顔、いつも喋っていたこと。一緒に行った場所も一緒に食べたものも思い出して、泣いたわ。でも、今はどんなにあの頃のことを思い出してももう泣けない。私が今死んで、中学校の時の友達や高校の時の友達が悲しんでくれると思う?」
菜々美は、震える呼吸を落ち着けようと、言葉を切った。
「そして一番腹が立つのは、私が友人のことをずっと覚えていたくても心の中で遠ざかっていってしまうこと。忘れたい人は忘れられなくて、忘れたくない人を忘れていってしまうことなの。」
店主はカウンターの後ろに回ると、水道を流し、石ケンを使って手を洗い始めた。
「ええ。あなたが死ねば誰かが悲しみますよ。必ずね。」
「あなたは、私の友達も家族も知らないじゃない。」
店主は、前掛けの下から桜色のハンカチを取り出すと、丁寧に水滴を拭きとった。
「このエリカという花、アフリカ原産だと言いましたが、実はヨーロッパにも数種類の原産種が自生していて、特に英国ではヒースという土地で見られるんです。」
「何よ急に。それがどうしたっていうの。」
「ヒースとは、北の乾燥した荒涼地帯のこと。砂と岩に覆われ作物も育たず、木も根を張れないほどに土が乾いている。そんな場所にこの花は咲くんです。」
菜々美は言葉を失い、店主の顔を見ることもなくうつむいていた。
「その姿から、この花にはある花言葉がつけられました。『孤独』という、花言葉が。」
菜々美は下唇をギリッと歯で噛んだ。
「私、そんなに孤独な女に見えたのかしら。」
「ええ。」
と店主はすかさず答えた。菜々美はその言葉に反応し、ぐっと店主を睨みつける。
「孤独でないものはいない。だが、それに気づいている人は少ない。どこかで気づいてはいても、己が孤独を認められる勇気のあるものはそういない。どれだけ満たされているように見えても、人に囲まれているように見えても、心の奥底では、永遠に満たされない渇望がくすぶっていることも。そして、そんなことは簡単に打ち明けられるようなものでもない。」
そして、店主は菜々美の方にくるっと振り向くと、にっこりと笑いかけた。
「遠ざかっていくことは完全に忘れてしまうこととは違う。あなたは、十分人を大切にしてきたんでしょう。それにね、あなたが覚えていて心の中にいる人たちは、絶対にあなたのことを覚えていて、時々考えていますよ。今は元気かな、どうしてるかなって。」
店主はエリカの鉢植えをそっと持ち、菜々美の方に静かに差し出した。
「さあ、持っていてください。また訳も分からず寂しい思いをした夜のために。あなたの胸を去来する幾百の友を思うために。あなたの孤独な魂のために。」
菜々美はしばらく迷っていたが、ゆっくりと店主の手から鉢植えを受け取った。
「本当にありがとう。」
「いいえ、僕も花屋冥利に尽きますよ。」
フフフと二人から笑顔が漏れた。顔を見合わせて笑い合った。気のせいかもしれないが、エリカの小粒な花がサワサワと微笑みかけているように見える。菜々美と最初に会ったときの性的な魅惑はもう力を失っていたが、とても完全で満ちたりた瞬間だった。
「あ、ところで。名前はなんておっしゃるの?ネームプレートも付けてないみたいだけど。」
と菜々美が思い出したように尋ねる。
「え、えーっと僕は・・・に、西風!変わった苗字だけど、西風早太と言います。よろしく。」
「へー、随分爽やかな名前なのね。よろしくお願いします。」
菜々美はにっこりと笑って右手を差し出した。西風早太と名乗ったばかりの店主も優しく手を握り返した。柔らかくて大きくて温かい手だ。春風のように爽やかで温かい友情が二人の間に流れているのを、菜々美は感じた。
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