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一
唄が聴こえる。口ずさむような細い声なのに、耳に届く。この唄は知っている。他の女学生が真似て唄っていたのを聴いたことがある。確か、評判の劇中歌。乙女に恋を嗾ける、不埒な唄だとお父様が言っていた。けれど今聴くこの唄は、不思議と私を惹きつけた。
そうしなければいけないような気がして、私は校舎の中、声のする方へ足を早めた。袴の擦れる音と、ブーツが廊下を打つ音がもどかしい。唄声がかき消されてしまいそうで。
声が近くなると、私は一度足を止め、そこからゆっくり近づいた。声の主は、中庭にいた。
濃赤色のリボンで束髪崩しにされた、腰まであるたっぷりとした黒髪が、風に靡いて艶やかに光っている。白地の着物にはリボンと合わせた濃赤色の大きなダリアが描かれており、袴は翠。ダリアが咲き誇る中庭に佇むその後ろ姿は、彼女自身がそのうちの一輪のように見えた。
触れてはいけない世界にきてしまった気がして、そのまま立ち去ろうと足を後ろに踏み出したところで、足元の小枝が音を立てた。唄が止まる。瞬間、しまったと思う。彼女がゆっくりと顔をこちらに向けた。
意志の強そうな瞳に、射抜かれたような気がした。くっきりとした二重瞼、赤く色づく小ぶりな唇、すっと筋の通った鼻、どれをとっても羨ましく感じるその美貌と、華族出だという家柄が有名で、彼女には見覚えがあった。
「千代さん……?」
思わず名前が口に出て、慌てて口元を手で抑えた。家柄としても同等で、見た目も派手な人たちに囲まれる彼女が、格下の私を知っているわけもなく、きっと私に名前を呼ばれるのも不愉快だろうと思ったのだ。他の人に伝わったら、ひどいことになるかもしれない。明日からの日々が急に不安になり、浅はかだったと後悔して足が震えた。
「静子さん?」
意外にも彼女は、私の名前を口にした。その声は凛と通る中にも優しさが感じられ、私は涙が滲んだ。
「どうしたの?」
彼女は少し慌てた様子で私に近づいてきた。まだ恐れの残る私は、一歩後ずさる。それに気づいたのか、彼女の足も止まった。悪いことをしてしまった気がして、せめて彼女の疑問に答えなければと口を開く。
「あの……唄が、聞こえて……」
まだ震えている足のためか、声まで震える。内容もどうもしどろもどろになってしまう。自分のみっともなさと、もしかしたら彼女は、私がなぜ泣きそうになっているのかを問うたのかもしれないことに思い至り、顔が熱くなった。
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