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二
初めて言葉を交わしたあの日、千代さんはお見合いがあったのだと後で知った。彼女の器量や家柄を思えば遅いくらいだったが、彼女が卒業まで残るはずもない。今回のお話は当然のように祝福の空気に包まれていた。
そして偶然にも、私もその日、お見合いだった。お相手はお父様の知り合いで、職業は教師だと聞いた。なのに初めて会った彼はひどく無愛想で、教師というのは聞き間違いだったかと思うほどだった。その顔の厳しさと、ぴしっと刈り上げられた髪型が、むしろ軍人さんを思わせた。顔を合わせるだけのその席で、結局私は彼の声を一度も聞かなかった。正臣という名前も、後になってお母様から聞いたのだ。お父様から、いい人だっただろうと問われても、私は笑みしか返せなかった。
中庭のダリアが揺れる。あの日から、よく中庭に足を運んだ。この学校の中庭には、季節の花が咲いていると耳にしてはいたけれど、意外とここに足を運ぶ人は少なかった。私もあの日初めて足を踏み入れたのだ。
そもそも、習い事をしている学友も多いし、私たちにとって、時間があるのであれば、学内に止まるよりも、街に出たり、甘味屋に寄ったり、そちらの方が魅力的だった。先生方の目が無い、という点も重要だったかもしれない。
だから中庭は、とても静かだった。少し、千代さんが来てくれることも期待したかもしれない。でももし千代さんが来なくても、あの日、あの時間を共有したダリアが何と無く愛おしく思えて、見たくなるのだ。そしてその時、頭には彼女の声であの唄が流れていた。
歌詞もよく知らないけれど、口ずさむ。かすれて、音が合っているのかも正直自信がない。
「ふふ、静子さんもお上手ね」
不意に笑みを含んだ声がして、慌てて振り返った。
「千代さん……」
名前を呟くと、彼女がそこにいるのだと実感が湧き、下手な唄を聴かれた恥ずかしさに顔が熱くなった。それを彼女が「上手」なんて言ったものだから、なんだか情けなくて泣きそうになる。
「……揶揄わないでください」
やっとの言葉も震えた。「あら」と慌てたように千代さんが近づいてくる。
「揶揄ったわけじゃないのよ。澄んだ綺麗な声色だったわ」
私の肩にそっと白魚のような手を置き、顔を覗き込んでくる。くっきりと綺麗な顔が目の前にくると、迫力があった。それでも彼女の真剣そうな顔に、揶揄ったわけじゃないという彼女の言葉が信じられた。綺麗な声だというのはお世辞だとわかっていたけれど。
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