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遠野さんは俺の首の後ろに手を回して、背伸びをしながら唇を重ね合わせてきた。やっぱり俺は、この感触を知っている、と思った。
「今のはわたしが勝手にしたので、石崎さんは何も悪くありません」
そう言った彼女は、俺が伸ばした手を躱して、夜の中に足を踏み出した。足取りは軽く、なんだかすっきりした表情をした遠野さんが少しだけ羨ましかった。こんなにも俺の気持ちを揺さぶっておきながら、自分の知らないところで幸せになってほしいだなんて、ずるいじゃないか。
だけど、俺は何も言わなかった。言えなかった。俺はこわかったんだ。また『出会わなければよかった』なんて言われたくない。遠野さんはあと三か月で結婚する。それなら遠野さんは何も知らないほうがいい。大切な人に似ている俺と綺麗な思い出作りをしていればいい。
「それじゃあ、また」
そう言って頭を下げた遠野さんに手を振り、また、と口の中で呟いた。次の約束があることに喜びつつ、いつそれが最後になるかわからない寂しさを抱えることになった。
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