煙衣

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 愛用の煙草を一本減らしておくのが、私たちの夜の合図だった。  その合図をいつから使っていたのかは、もはや思い出すことはできないが、最初に使い始めたのは夫からだったはずだ。口下手な夫らしいと笑みが零した記憶があるが、何故、煙草を一本減らしておくという合図にしたのだろうかと、今さらながら疑問に思った。  ヘビースモーカーの夫にとって、煙草は自分の身体の一部分だから、煙草の空いた穴を埋めて欲しいという意味なのだろうか。それとも、煙草が燃え尽きたあとの『灰』を、肯定の『はい』と掛けていたりするのだろうか。  何となく尋ねる機会が無かったが、今日、仕事から帰ってきたら聞いてみようと思った。  夫を送り出した午後、家事も終えて手無沙汰になったので、そんなことをぼんやりと考えていると、突然に胸の辺りに違和感を覚えた。一時的なものかと思ったが、少し待ってみても、収まるどころか余計に違和感は強くなっていった。  更に、眩暈や動悸までしてきて、悪心もする。立っているのも辛くなると、倒れるようにして壁に凭れかかり、ズリズリと落ちていく。  嘔気が増していき、胃から何か逆流してくるような感覚がする。手足が震えだし、全身を汗がびっしょりと蝕む。呼吸の線が細くなり、視界が暗んでいった。  突然の事態に何が起こっているのか理解することができず、恐怖と焦燥ばかりが脳を支配する。何とかしなければ、という思いだけが脳内で空回り、意識が薄らいでいく。  そのうち目を開けているだけのことすらも辛くなった。……このまま、死んでしまうのだろうか。身体が冷たくなっていく感覚がした。……怖い。怖い。怖い。どうしようもなく、怖い。  最期の力を振り絞って、携帯電話のボタンを押す。繰り返される発信音が徐々に遠くなっていくの聞きながら、意識が冷たい闇へと沈んでいった。
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